不惑わくわく日記

大阪でコンサートをあさっています。

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ろんろんが高校を卒業する

ちょうど、大植・大フィルの定期演奏会に重なってしまったので、記事にするのが遅くなったけれど、ろんろんが先週の金曜日に高校を卒業しました。

このブログを始めた時、彼はまだ小学生で、星野監督の阪神タイガースを見に行ったり、ろんろんの絵のページがあったり、ろんろんのブログがあったりしたんだよね。

もう一人で歩いて行くんだなあ。

このブログも、「我が家の風景」も、

彼の卒業とともに

そして大植さんの監督からの卒業とともに

長原君のコンマスからの、大阪からの卒業とともに

終わろうと思います。

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ストラヴィンスキーのヴァイオリン協がこんな曲だったとは・・・京響定期

どれをとっても素晴らしい演奏だったけれど、とりわけヴァイオリンが印象的。

京都 京都コンサートホール
京響第554回定期演奏会
井上道義指揮 京都市交響楽団
ヴァイオリン独奏 郷古廉
ストラヴィンスキー:ハ調の交響曲
ストラヴィンスキー:ヴァイオリン協奏曲二調
ストラヴィンスキー:3楽章の交響曲

オール・ストラヴィンスキーという挑戦的なプログラム。プレ・トークで道義さん、「今はこんなプログラムでもお客さんが一杯になるようになったので、こんな曲やらしてもらってます。有難うございます」とのたまっておられましたが(そんなこと仰らずとも、とも思いましたが)、いえいえ、「京響で」「こんなプログラムだからこそ」わざわざやってくる聴衆が居るんですよ、僕のように。

少なくともぐすたふくんにとっては、今シーズンで最も期待に胸膨らませて臨んだ演奏会。そしてその期待に違わぬ演奏。さすがは、今の京響、です。

最初の「ハ調の交響曲」からして、京響サウンド全開。鋭角的でクリアなサウンドを聴かせ、この「20世紀風バロック組曲」、こんなに面白い曲だったっけ、と思いながら聴いてました。ハ調という調性から演繹される最大限の明るさ、それそのものを指向したエンターテイメント作品だったんだ、ということを初めて感じられたように思いまする。正直、いつもCDで聴いてる分には退屈で面白くなくって、今日も実は3曲の中では最も期待してなかったんだけれどなあ。やはり、演奏がそれだけ良かった、ってことなんでしょう。

そして、メインの「3楽章の交響曲」はもう、申し分のないゴージャスなもの。これぞストラヴィンスキーというような変拍子のリズム細胞で構成されたこの難曲、それを一切の無駄な演出を排し、その幾何学的美しさを一直線に現出させた見事なまでにカッコイイ指揮ぶり、さすがは井上道義、です。で、実際に鳴る音がそこでもたもたしてたらどうしようもないわけで、それをきっちり決めた京響もエライ。この曲、ぐすたふくん大好きで大好きで・・・・ライブでこの曲を聴ける愉悦、その幸せ、ただただ満足でした。最後の一音を振り終わった瞬間、道義さん客席をどや顔で振り返ったけど、まあそれに値する出来。まさに、降参、です。

で、ここまでで一旦文章を切ります。京響のこと、道義さんのこと、そのことは充分に書きたかったから、ここまで書きました。でも、今日の演奏会の一番は、僕にとってはソリストなんです。その気持ちを前面に出してしまうと、せっかくの二つのシンフォニーのことがおざなりになってしまうような気がして・・・・それでは、あんまりだと思ったんですよね。だから、まずひとまず文章を纏めよう、と思ったんです。

改めて、ヴァイオリン協奏曲のことを書きます。

申し訳ないけれど、今日の二曲目のコンチェルトは、京響は添え物、だったです。確かに、軽妙・洒脱な色どりを十二分に添えていたという点で、京響の演奏にも魅力は充分以上にあったとは思います。ストラヴィンスキーのこの曲、本当はそういう曲、だと思うんです。言っちゃ悪いが、それほどの深みのない、演奏効果を指向した、娯楽的作品。ヴァイオリン協奏曲っていうのは、そういうもんでっしゃろ?、これでどないだす? てな態度で書かれた作品。僕はそう思っていたから、この曲はあまり好きじゃなかった。前に諏訪内さんのソロで聴いたときも、熱演する諏訪内さんと、実際に出てくる音や曲の有り様とのギャップに違和感ばかりが先に立ち、決して愉しめなかったし、これといって感じるところもなかった。なんでこんな曲やるんだろう、とも思ったことを思い出す(前の記事:http://www.geocities.jp/ronronrinrin/2004concertreview.html#040528;奇しくも、前回の大植さんの「春の祭典」の次の大フィル定期がこの曲!!)

ところが・・・思わず聴いている途中で、ぐすたふくん、ソリストのプロフィールを確かめるために、プログラムを開き直しました。そうせずにはいられなかった・・・・1993年12月生まれ・・・なんとまだ18歳になったばかり!!

これから僕が書くことは、この若いソリストにとってはお笑い草かもしれない。彼がもし、この文章を読んだなら、その眉目秀麗な顔に憐れみの表情を浮かべ、何も知らない馬鹿が馬鹿なことを書いている、と吐き捨てるかもしれない。

でも僕は、「厳粛」とでもいう他のない、その徹底的に厳しい演奏に・・・まるで、バッハの無伴奏を弾いているかのようなストラヴィンスキーのソロパートに・・・どうしようもなく引き込まれた。彼の、内へ内へと凝縮していくエナジーの紅く鈍い炎を凝視するうち、僕の耳の前景にはヴァイオリンの音が巨大な塊となって屹立し、オケの音は周辺やその背後に後退していく・・・・この曲って、こんな曲だったんだろうか?僕はとんでもない間違いをしていたのだろうか?僕は、この曲の何も聴けてはいなかったのか?

ただ確かなことは、このヴァイオリニストが、生まれついてのソリストだ、ということだ。それもただのソリストではない。往年のシゲティのような、孤高の高みにまで昇ろうとする、峻烈な激しさを秘めた魂。ここまでの若いヴァイオリニストが、しかも男性のヴァイオリニストが、日本に居たとは。

演奏が終わって、道義さんが言う「去年の3月、彼は宮城県多賀城に住んでまして・・・・電話をかけても繋がらない、繋がらない・・・・そんで、彼は12時間かけて金沢までやってきて・・・そして最初にしたことは・・・・1週間ぶりの風呂に入った!!・・・・生きてて良かったです!!」

彼は神に選ばれた子、なのでしょう。

黒川侑21歳、郷古廉18歳・・・・この二人、決して忘れますまい。

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ありがとう 大植英次・・・・大フィル定期

今日は、演奏も昨日に増して素晴らしかったけれど、それよりも、なによりも・・・・

大阪 ザ・シンフォニーホール
大フィル第455回定期演奏会(二日目)
大植英次指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」
ストラヴィンスキー:バレエ音楽「春の祭典」

昨日の「ハルサイ」より、さらに上を行くとは想像していなかった。何をおいても「いけにえの踊り」に止めを刺す。妖しい光彩を放つまでの、ぬめりに似た触感。これを、エロス、と呼ぶに躊躇はない。クライマックス前のゲネラル・パウゼ、そこでの大植さんの壮絶なる唸り声と、振り下ろされたタクトに跳ねあげられるように飛び上がる彼の体躯。それが何よりも、この演奏に籠められた尋常ならざるエナジーの証。

この部分でのストリングセクション、フロントローのテンションの高さも尋常ならざるもの。長原幸太・佐久間聡のヴァイオリン・ツートップの渾身のダウンボウ、それが生み出すサウンドの何と豊かな質感と量感であろうか。ここまでのストリングサウンドの上に、昨日よりもさらにパワーアップしたブラスが咆哮する時、ああこれこそ「ハルサイ」をライブで聴くことの至福・・・心からそう思う。

昨日は背景にしか過ぎなかったかの印象であった「田園」は、今日は充分に「ハルサイ」と対峙しうる一幅の絵。今日の演奏ならば、こう並べたとき、それこそ「聖と俗」「天国と地獄」というような古典的連祭壇画を連想するに困難はない。「田園」が実は、ああみえて「舞踊組曲」であることに気付くとき、「田園」と「ハルサイ」を並べることの妥当性、その美的俯瞰に策士大植の意図を汲むこと、可、とするにやぶさかではない。ただただ、昨日の「田園」、乗りが悪く、リズムの生命感に欠けていた、そのことがぐすたふ君をして、昨日の方が面白くないと思わしめた原因のように思う(たとえ、今日は4楽章から5楽章にかけてのブリッジ部分で、オーボエが落ちるという大事故があったにしても)。

いつもなら、この先に東京公演があって、そこにピークが持って行かれるのだろう、そう思ってしまうのだが、今日はそう思わない。今日がピークかもしれない。今日が、最高のパフォーマンスかもしれない。なぜなら・・・

終演後の温かい拍手、いつまでもいつまでも続く拍手・・・・大植さんが引っ込んでも、そして長原君が礼をしても、舞台上からみんな去ってもやまない拍手に、再び現れた大植さん。そのもとに、みんなが駆け寄る。そしてそれからの、長い長いスタンディングオベーション。大植さんは舞台から握手をし、客席に飛び降りて抱き合い、そして指揮台に口づけをする。ブラボーの掛け声、有難うの掛け声・・・そう、今日は大植さんの監督としての最後の定期演奏会だもの。

ありがとう、ありがとう。あなたが大阪にやってきてくれてから9年間、僕はずっとあなたについてきた。僕はあなたについてきて・・・・あなたと大フィルについて行こうと決めて、本当に良かった。こんなこと、もう多分、僕の一生の中、二度とないだろう。こんなに豊かな音楽的体験ができたこと、僕の一生の宝だと思います。

さようなら、偉大なる大阪のマエストロ、大フィル音楽監督、大植英次。

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田園を背景にハルサイが屹立する・・・・大フィル定期

「ハルサイ」のための演奏会、ですね、明らかに。

大阪 ザ・シンフォニーホール
大フィル第455回定期演奏会
大植英次指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」
ストラヴィンスキー:バレエ音楽「春の祭典」

明日も行くので簡単に・・・・

正直に言ってしまえば、今回のプログラムは「田園」は「ハルサイ」が後半に無かったなら、たんなる退屈な演奏以外の何物でもなかったんじゃないか、と思います。

いろいろ細かい表現や仕掛けを丹念に織り込んだ「田園」だったと思うけれど、いかんせん音楽が開いて行かないもどかしさに終始していて、せっかくの6楽章も今一つ法悦感に乏しく、聴いていてうーんと思ってしまうような演奏。

でも、大植さんというひとは、同じ曲を、違う文脈、違う風景に変えてしまう人。これは、何かあるな、と思っていたら、後半の「ハルサイ」を聴いて、なるほどと。

極端な話、「田園」は「ハルサイ」の合わせ鏡。もしくは、背景と前景。モナリザと、その背景。そういうことだったんじゃなかろうか。

「ハルサイ」は掛け値なし。変拍子のなかでフレージングを歌わせようとする大植イズムが生み出す、緊張感あふれる熱演。無機的、幾何学的な美を追求するよりも、むしろ、そこに情念のような濃厚な気を漂わせる、不思議な魅力に満ちていたように思います。

大フィルも、プロの仕事らしい、良く練れた演奏で応えていたが、第1部の「二つの対立する種族の遊戯」で大きな事故があったのは残念でした。

さて、明日は?

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グールドのブラームス間奏曲集

このアルバムのことはずっと以前から知っていて、坂本龍一がどうしても一枚だけ選べと言われれば、迷わずにこの1枚を選ぶと言っていたのを聞いて以来、激しく気にはなっていました。でも、なんだかんだで今日まで聴かずに済ましていたもの。

で、この間の冬の演奏会で念願のラヴェルのソナチネを弾いてくれたこすもすが(感謝感激、本当に弾いてくれるとは!!日々、この曲が自宅で弾かれることのなんと幸せなことだったろう!!)、次の夏の演奏会で僕にとって究極の音楽の一つである「間奏曲 作品118の2」を弾くつもりだと言ってくれた時の雷に打たれたような感慨は、到底言葉では言い尽くせない。

で、買いましたよ、このアルバム。究極の曲の究極の演奏。これを聴かずして、何を語ることができるだろうか?

で、聴いてます。聴いてますけど・・・結局、何も語れないような気がする。言葉にしてしまえば、それは嘘になりそうで。

ほとんど崩れ落ちる寸前までの演奏、でもそれがぎりぎりのところで品位をもって踏みとどまっている・・・その様、その有り様、それ自体の圧倒的な存在感・・・それは、それ自体が、ブラームスと言う人、グールドと言う人、もっと言ってしまえば「人間」という存在そのものの根源に根ざしているようで、真に畏敬の念と深い共感を聴く人のなかに呼び起こすように思う。

やはりこの演奏は、深夜、一人きりで聴くに相応しい、ですね。何も言わずに。


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いや、やっぱりハイドンがいい・・・・大フィル定期二日目

やっぱり、ハイドンが掛け値なし。

大阪 ザ・シンフォニーホール
大フィル第454回定期演奏会(二日目)
大植英次指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
ハイドン:交響曲第92番Hob.I92「オックスフォード」
ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」

大フィルのブログにもちゃんと書いてあるように、そしてプログラムに挟みこまれた大植さん自らのコメントにもあるように、このハイドン、配置が独特。基本は8-8-6-4-2の弦セクションなのだが、それが、左右に(8-0-3-2-1)と(0-8-3-2-1)のように配される。要するに、バックに通奏低音を従えた二つのヴァイオリン群が対峙する、と言った格好。その二群に挟まれるようにして中央に管楽器群が座す、といった塩梅で、実際に聴いていると、通奏低音にそれぞれが支えられた三声がアンサンブルしている、という構造が非常に明快に聴こえてくる。そのことが、非常に面白かったですね。

特に、それが効果的に分かったのは、4楽章の開始で、この部分、ファーストヴァイオリンとチェロだけで始まるのだが、このチェロが、オブリガートチェロ一丁ではじまるものだから、丁度左弦楽群から音楽が始まる、と言う格好になるんですよ。左弦楽器群→左弦楽器・管楽器群vs右弦楽器群→Tuttiと拡大していくのが目に見えてわかる、という具合。

帰ってきてスコアを確認したところ、ハイドンは最初から最後まで、一貫してチェロパートを、オブリガートチェロとチェロ・バスの二つに分けているのだけれど、大植さんはこのオブリガートチェロを、基本的にトップチェロ一丁にしていたみたいです。ところが、僕が持っているCDでこれをチェロ一丁でやらせているのは皆無。

そんなもので、この扱いが僕がこれまで聴いたことのない新鮮な響きを聴かせてくれるんですよ。それは例えば、一楽章の序奏で、柔らかなヴァイオリンとヴィオラの和声の雲の中、チェロがソロが朗々と対旋律を歌う美しさ、そういったところ。

大植さんのハイドン・サウンドのモダンさの表出は、これにとどまらず、3楽章のトリオでまるで地虫がじーーとうなるような音が聞こえたり(これは、一体だれが弾いてたんだろう?探してもわからなかったです)、4楽章でおならのようなホルンのゲシュトップが聴こえたり、といろいろ不意打ちのような音が飛び出してくる。これも面白かったなあ。

またテンポも絶妙で、突然のストップや、突然のテンポダウンなんかもそこかしこに仕掛けてくる。ここらへん、どこまで許されるか、という話もあるかもしれないけれど、ハイドンの音楽の基本はユーモアとウィットなんやから、曲の様式感が許容する範囲でいろいろやるのは、それこそハイドン自身も想定の範囲なんでしょう(帰ってきて、ラトル・ベルリンフィルの演奏をダウンロードして聴いたら、口あんぐり。こっちの方も凄いなあ、好き放題やってますねえ)。

こういう音楽の楽しいことと言ったらないです。これだけ楽しい演奏を聴かせてもらってるのに、なんでみんな演奏後ずのーーんなんやろ、と昨日書いたけど、今日はそこそこ笑顔がありました。拍手も、昨日はこれだけの演奏にこれはないやろ、と言う拍手だったが、今日は充分なレスポンス。よかったよかった。

でもって、英雄は、逆にもっといろいろとやって欲しいぐすたふ君にとってみれば、あたりまえの正攻法の演奏なもので、こんなもんか、てなもんで・・・・まあ、なんて不遜なクラオタなんでしょうねえ、私って(笑)。

でも、ボッセさんに捧げる演奏ですもん、それでいいんですよね、大植さん。



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意外に・・・大フィル定期

いや、正直なところ、です。

大阪 ザ・シンフォニーホール
大フィル第454回定期演奏会
大植英次指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
ハイドン:交響曲第92番Hob.I92「オックスフォード」
ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」

プログラムを見てびっくりしたのだが、大植さん、スコッチを本番で振ったことが無いらしい。そんなことがあるんやなあ。それに、エロイカにしても、たくさん聴いたように思っていたけれど、実は定期にエロイカが掛るのは21年ぶりだとか。帰ってきて調べると、確かに大植さんのエロイカは、ベートーヴェン連続演奏会のときと大阪クラシックの2回。少なくとも3回くらい聴いたように思っていたし、定期で一度聴いたみたいに思いこんでいたのだけれど・・・・まあ人間の記憶なんていい加減なもんでありまする。

エロイカについては、大植さんのいつものスタイル。一楽章は早め、二楽章はじっくり、三楽章はさっと済ませて、四楽章で大きく盛り上がって終わる、という、奇をてらうことのない正攻法のもので、なにわのストコフスキーを期待するところ無きにしも非ずだったぐすたふくんにとっては、ちょっと肩すかしだったかも。でも、レパートリー感満載、大フィル・サウンド満喫(良くも悪くも・・というあたり、ちょっと含みがありますが)の満足できる演奏ではありました。

で、意外、と書いたのはハイドンの方で、「意外にもとっても良かった」んです。ホント。

これも、こっちの勝手な思い込みなんだろうけど・・・この間のシューベルトの5番がぐすたふくんとしては今一つの演奏だったので、あまり期待していなかったんですよね、実のところ。それがまあ、きりっと締ったプロポーション、加えてユーモアもあり、それでいてチャーミング、なんとも魅力的な演奏で・・・・この演奏だったら、あと8回聴いても良いなあ、と思った次第。

実際、明日もう一度聴けることが本当に楽しみなんです。だから、いろいろなことはその時に。

でも、ハイドンの演奏の最中に大植さんがポケットから出していたカードのようなもの、あれは一体何だったんだろうなあ。それから、これだけの演奏だったのに、終わった後の楽員諸氏から醸し出される空気がなんともどよおおおんとしたものだったのは、一体なぜなんだろう?

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長原幸太退団!!

多分そうなるだろう、とは思っていたものの、実際にそうなってみるとやはりショックですね。

長原君は大植さんの一本釣りで大フィルに来たわけだし、大植さんが辞めると同時に辞めよう、ときっと決めていたんだろう、と思います。

あのブラ4の衝撃、大阪クラシックでの獅子奮迅の活躍、この間の第9での中腰での奮闘など、目を閉じれば、今今のように思い出します。

大植さんと長原君と過ごしたこの年月、僕の人生の中でこれほど充実し濃密にひとつのオケと過ごした時間はなかったです。また、おそらくこれからもない、と思います。

本当にありがとう。

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2011年の最後に、カラヤンのベートーヴェンを聴きながら

ベートーヴェン 交響曲全集・序曲集
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリンフィルハーモニー管弦楽団
録音 1975-1977

大植さんの演奏を聴くと、それこそもう一度その体験を反芻したい衝動にそのあと数日さいなまれることになる。それがかなわないから、他の演奏をとっかえひっかえ聴くことになるのだけれど。

うちにある第9といえば、ラトル・ウィーンフィル、バレンボイム・ベルリンシュターツカペレ、ジンマン・チューリヒトーンハレ、ノリントン・ロンドンクラシカルプレイヤーズ、チェリビダッケ・ミュンヘンフィル、コンヴィチニー・ゲヴァントハウス、イッセルシュテット・ウィーンフィル、そしてカラヤン・ベルリンフィルの1962年録音のレコード。

レコードは簡単には聴けないものだから、iTuneにとりこんであったカラヤン以外の演奏をそれこそ片っ端から聴いて行きました。聴くだに、昨日の演奏を反芻し、そしてその違いからそれぞれの演奏の美点を味わい・・・そんな一日。

で、そんなこんなしているうち、ついついiTuneを検索。そしたら、どうしてもカラヤンの1977年の録音が聴きたくなってしまい・・・ついつい、全集もろともダウンロード。あああああ、4500円が一瞬でぱああああっと・・・いつもながらの、極道ぐすたふくんの後先考えない衝動買い、でありますな。

いやでも、この演奏の何というゴージャスなことだろう。1970年代のクラシックのメインストリーム、それはこういう匂いと触感だったんだ。

1977年って言えば、僕は丁度14歳。ああ、偶然にも中学三年生の時!!でも、この新録音は高くて買えなかったんだろうなあ。1962年盤を買ったところだった、っていうのもあっただろうし。

この全集のことは、学校の図書館の雑誌棚にあったレコード芸術の特集記事で読んだのを憶えている。記者が、録音場所のフィルハーモニーホールに行ったら、ベースが8本も居たが、欠席した人間のことをマネージャーが尋ねていた、と言うくだりを妙な鮮明さで記憶している。なんで、こんなこと憶えてるんだろう?

その記事を読んでいたのは、学校の雑誌閲覧室。この記憶の僕の視界には、曇った空が広がっている。図書館の高い天井と、本の匂いと、そしてストーブの石油の匂いと。

カラヤンは、やっぱりその頃の僕にとってはスーパーヒーローだった。新譜が出れば、記事には必ず目を通していたけど、お金のない中学生にとっては、新譜は高根の花だったからね。

今の僕が、そんな中学生の僕が渇望していた演奏を、ひょいっとダウンロードして聴いてるんだなあ。

今、ヘッドホンからは、カラヤン美学炸裂の豪華絢爛たる演奏の奔流。これはこれで、何と魅力的なことだろうか。そんな演奏を、聴きたいと思ったら、自宅にいままにしてすぐに聴くことができる、そんな時代になるだなんてそのころの僕には想像もつかなかっただろう。

でも、今この演奏を今の僕が聴いたって、そこには、あの時にあの時の僕が聴くことができた場合の、その何分の1の価値しかそこには無いような気がする。

聴いているだろうか、中学生の僕。時間もなく、お金もないけれど、想いばかりは大きく、それを必死で追いかけるだけで幸せだった君に、今の僕からささやかなプレゼントができたなら、うれしい。

もうすぐ年が変わる。不惑40代、最後の年が始まる。

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大植・大フィルの第9~まるで第9の別バージョン~

いやまあ、何と申しましょうか・・・・大植英次、炸裂、と言ってよろしいのでは。

大阪 ザ・シンフォニーホール
大フィル第9シンフォニーの夕べ
大植英次指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
ソプラノ スザンネ・ベルンハート
アルト カロリン・マズア
テノール トーマス・クーリー
バリトン アンドレアス・バウアー
合唱 大阪フィルハーモニー合唱団・大阪音楽大学合唱団

正直言って、27日に広上・京響で聴いたばかりの同じ曲とは思えないですね。まるで、ブルックナーのある交響曲のノヴァーク版第3稿と第1稿を聴いたみたい、といっても言い過ぎではないような気すらしてます。

正直、この曲、こんな曲だったけ?こんな音が鳴ってたっけ?、の連続。第9なんて、これまで耳にタコができるくらい聴いてきた曲。ここでこんな音が鳴って、ああなってこうなって、って身に沁みついてると言ってもいいくらい。それこそ頭の中で鳴らそうと思えば、いつでも鳴らせますよね。ところが、ところが・・・・スコアを、今日の演奏をもう一度聴きながら、詳細にチェックし直したいくらいなのだが、残念ながらそれは不可能ですよねえ。

なんでぐすたふくんに今日の演奏がそう思わせたか。それは、ひとえに特異なオケの配置によるところ大。大フィルのブログにも書いてあったが、実際に目に、耳にしてみると、まあ想像以上のもの。

まずストリングセクションからして、なんやこれ!こんな配置見たことないで!!・・・でんと指揮者の正面にチェロ、その後ろに横一列にベース。そしてそのチェロを挟んで二群のヴィオラ(というより、ヴィオラがチェロで分断されてるといった方がいいかしら?)。その二群のヴィオラをチェロと挟むようにして、ファーストヴァイオリンとセカンドヴァイオリンが対向配置でにらみ合うという格好。

そして、管セクションも二群に分かれて、左右のヴィオラの後ろに座すような配置。左群は、ホルン4本が最も右に位置し、その音をもろにかぶるようなところに木管群。その後ろに打楽器群(4楽章用の)。右群は、ペット二本とその後ろにボーン3本、その左にティンパニ。

そんなもんだから、二群の管楽器群が、舞台の端と端に遠おおおおく離れてしまってるわけですよ。そら、違う音がしますわねえ。

しかし、この編成が生むアンサンブルの取りにくさといったら、半端じゃないです。そんなもんで、今日は最初から最後まで、コンマスの長原君、獅子奮迅の大活躍(何回椅子から腰を浮かせただろう?)。それのみならず、オケ全体が異様な緊張感に包まれているのがこちらにもひしひしと伝わってくる。オケ全員、まるで初めての曲をやってるようなもんやったんでしょうねえ。なじみの曲、というようなルーティーン感は微塵もなく、それこそ下手したら崩壊するで、というような危機感すら漂ってます。実際、4楽章の弦楽器の二重フーガになる直前のところなど、ああああ止まる止まる!とかなり危なかったですもん。まあ、大植さんもオケも必死になんとか持ち直しましたが。

その緊張感が、まるで大学オケの入魂の定期演奏会のような熱演を生むのだから、音楽ってのはホントに分からないもんです。

合唱は、感心するほど秀逸。京響市民合唱団には申し訳ないが、一枚も二枚も上手です。しかし、この合唱の配置も独特で、後列2列に男声がテナー・バスと一直線に横に並び、その前に女声がソプラノ・アルトが並ぶという配置。そして、その合唱を背中に、ソロ4声がオケを見降ろすように屹立する。

この配置が最も効果的だったのは、4楽章で声楽がはいってくる、あのバリトンのレチタティーボから、その呼びかけに応えて男声が「Freude!!」とやるところ。それこそまるで、労働運動・共産主義のシュプレヒコールを見てるみたいな演劇的効果、大でしたね。

ソロ4声が合唱を直接背中に背負ってオケを見降ろすというのも、まるで天使が民衆を引き連れて進軍してくるかのような印象を与える。こういう演劇的効果、これもまた、この曲が歴史的背景から本来有していたものだったよね、と思う時、通常これまでの日本での第9の公演では得られなかったようなものが、今日ここに再現されていることに気付く。いやあちょっとしたことでもここまで印象が変わるもんなんやなあ。

ソロ4声も、それぞれが声を張り上げて主張しあうというものではなく、それこそ一つのユニットとして機能するようなアンサンブルと響き。そして、全員がドイツ人であることに気が付くと、来年が日独150周年であることと明瞭に関連していることに思いが至る。

第9の前には、ドイツ音楽の権化と言うべきバッハをバックに葦笛が和そのものの音を飛翔させつつ、アリアの鎮魂の響きで震災の記憶を呼び戻す。そして、大植さんの目の前に置かれた小さな台の上にある写真は、予想どうり御大のもの。それを掲げて、口づけさえして見せる二代目監督にとって、これが最後の第9。

ああ、大植英次、あなたは今回の公演のために、それこそ山のようにいろんなことを考えて、山のように準備をして臨んだんですね。何という人なんだろう、あなたという人は。

コーダの怒涛のプレスト。四方八方からのブラボーの嵐・・・そして、合唱団が退場するその時に再び現れた大植さんに、帰りかけていた聴衆は足を止めて舞台に向き直り、久しぶりの一般参賀。温かい拍手と、そして笑顔と。

大植英次、僕はこの9年間、あなたと大阪で、大阪の聴衆と一緒に、ここに居させてもらって、音楽を分かち合うことができて、本当に良かった。最高の時間だったと思います。

こころから、有難う、と言わせてください。

追記:
実は僕の席は今回、1階のど真ん中。僕の左には、朝比奈千足氏の御大そっくりのお顔。そして、右にはおそらくはドイツ大使館の方々。後ろには、小野寺前事務長・・・・その一角では、みな互いに挨拶をかわしていたから、そういう場所だったんでしょうねえ。そんなとこに今日座らせてもらって、なかなか感慨深いものがありました。

今日は、ファイナルコンサートの曲目のアンケート用紙が配られていたけど、演奏を聴いた後では、「復活」と書くのが躊躇されてしまいました。そんな安易なもんじゃないんじゃないかなあ、と思われて。

むしろ、もっと思い出としてふさわしい曲があるんじゃないかな、と。定期で一番感動した曲、定期で一番大植さんに相応しいと思った曲。おおさかクラシックで、泣いて笑った曲・・・・大曲1曲で終わってしまう、そんなコンサートより、あの曲・この曲、というプログラミングができる曲達の方がいいんじゃないかしら?

今は、そんな気がしています。

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