不惑わくわく日記

大阪でコンサートをあさっています。

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大植・大フィルの第9~まるで第9の別バージョン~

いやまあ、何と申しましょうか・・・・大植英次、炸裂、と言ってよろしいのでは。

大阪 ザ・シンフォニーホール
大フィル第9シンフォニーの夕べ
大植英次指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
ソプラノ スザンネ・ベルンハート
アルト カロリン・マズア
テノール トーマス・クーリー
バリトン アンドレアス・バウアー
合唱 大阪フィルハーモニー合唱団・大阪音楽大学合唱団

正直言って、27日に広上・京響で聴いたばかりの同じ曲とは思えないですね。まるで、ブルックナーのある交響曲のノヴァーク版第3稿と第1稿を聴いたみたい、といっても言い過ぎではないような気すらしてます。

正直、この曲、こんな曲だったけ?こんな音が鳴ってたっけ?、の連続。第9なんて、これまで耳にタコができるくらい聴いてきた曲。ここでこんな音が鳴って、ああなってこうなって、って身に沁みついてると言ってもいいくらい。それこそ頭の中で鳴らそうと思えば、いつでも鳴らせますよね。ところが、ところが・・・・スコアを、今日の演奏をもう一度聴きながら、詳細にチェックし直したいくらいなのだが、残念ながらそれは不可能ですよねえ。

なんでぐすたふくんに今日の演奏がそう思わせたか。それは、ひとえに特異なオケの配置によるところ大。大フィルのブログにも書いてあったが、実際に目に、耳にしてみると、まあ想像以上のもの。

まずストリングセクションからして、なんやこれ!こんな配置見たことないで!!・・・でんと指揮者の正面にチェロ、その後ろに横一列にベース。そしてそのチェロを挟んで二群のヴィオラ(というより、ヴィオラがチェロで分断されてるといった方がいいかしら?)。その二群のヴィオラをチェロと挟むようにして、ファーストヴァイオリンとセカンドヴァイオリンが対向配置でにらみ合うという格好。

そして、管セクションも二群に分かれて、左右のヴィオラの後ろに座すような配置。左群は、ホルン4本が最も右に位置し、その音をもろにかぶるようなところに木管群。その後ろに打楽器群(4楽章用の)。右群は、ペット二本とその後ろにボーン3本、その左にティンパニ。

そんなもんだから、二群の管楽器群が、舞台の端と端に遠おおおおく離れてしまってるわけですよ。そら、違う音がしますわねえ。

しかし、この編成が生むアンサンブルの取りにくさといったら、半端じゃないです。そんなもんで、今日は最初から最後まで、コンマスの長原君、獅子奮迅の大活躍(何回椅子から腰を浮かせただろう?)。それのみならず、オケ全体が異様な緊張感に包まれているのがこちらにもひしひしと伝わってくる。オケ全員、まるで初めての曲をやってるようなもんやったんでしょうねえ。なじみの曲、というようなルーティーン感は微塵もなく、それこそ下手したら崩壊するで、というような危機感すら漂ってます。実際、4楽章の弦楽器の二重フーガになる直前のところなど、ああああ止まる止まる!とかなり危なかったですもん。まあ、大植さんもオケも必死になんとか持ち直しましたが。

その緊張感が、まるで大学オケの入魂の定期演奏会のような熱演を生むのだから、音楽ってのはホントに分からないもんです。

合唱は、感心するほど秀逸。京響市民合唱団には申し訳ないが、一枚も二枚も上手です。しかし、この合唱の配置も独特で、後列2列に男声がテナー・バスと一直線に横に並び、その前に女声がソプラノ・アルトが並ぶという配置。そして、その合唱を背中に、ソロ4声がオケを見降ろすように屹立する。

この配置が最も効果的だったのは、4楽章で声楽がはいってくる、あのバリトンのレチタティーボから、その呼びかけに応えて男声が「Freude!!」とやるところ。それこそまるで、労働運動・共産主義のシュプレヒコールを見てるみたいな演劇的効果、大でしたね。

ソロ4声が合唱を直接背中に背負ってオケを見降ろすというのも、まるで天使が民衆を引き連れて進軍してくるかのような印象を与える。こういう演劇的効果、これもまた、この曲が歴史的背景から本来有していたものだったよね、と思う時、通常これまでの日本での第9の公演では得られなかったようなものが、今日ここに再現されていることに気付く。いやあちょっとしたことでもここまで印象が変わるもんなんやなあ。

ソロ4声も、それぞれが声を張り上げて主張しあうというものではなく、それこそ一つのユニットとして機能するようなアンサンブルと響き。そして、全員がドイツ人であることに気が付くと、来年が日独150周年であることと明瞭に関連していることに思いが至る。

第9の前には、ドイツ音楽の権化と言うべきバッハをバックに葦笛が和そのものの音を飛翔させつつ、アリアの鎮魂の響きで震災の記憶を呼び戻す。そして、大植さんの目の前に置かれた小さな台の上にある写真は、予想どうり御大のもの。それを掲げて、口づけさえして見せる二代目監督にとって、これが最後の第9。

ああ、大植英次、あなたは今回の公演のために、それこそ山のようにいろんなことを考えて、山のように準備をして臨んだんですね。何という人なんだろう、あなたという人は。

コーダの怒涛のプレスト。四方八方からのブラボーの嵐・・・そして、合唱団が退場するその時に再び現れた大植さんに、帰りかけていた聴衆は足を止めて舞台に向き直り、久しぶりの一般参賀。温かい拍手と、そして笑顔と。

大植英次、僕はこの9年間、あなたと大阪で、大阪の聴衆と一緒に、ここに居させてもらって、音楽を分かち合うことができて、本当に良かった。最高の時間だったと思います。

こころから、有難う、と言わせてください。

追記:
実は僕の席は今回、1階のど真ん中。僕の左には、朝比奈千足氏の御大そっくりのお顔。そして、右にはおそらくはドイツ大使館の方々。後ろには、小野寺前事務長・・・・その一角では、みな互いに挨拶をかわしていたから、そういう場所だったんでしょうねえ。そんなとこに今日座らせてもらって、なかなか感慨深いものがありました。

今日は、ファイナルコンサートの曲目のアンケート用紙が配られていたけど、演奏を聴いた後では、「復活」と書くのが躊躇されてしまいました。そんな安易なもんじゃないんじゃないかなあ、と思われて。

むしろ、もっと思い出としてふさわしい曲があるんじゃないかな、と。定期で一番感動した曲、定期で一番大植さんに相応しいと思った曲。おおさかクラシックで、泣いて笑った曲・・・・大曲1曲で終わってしまう、そんなコンサートより、あの曲・この曲、というプログラミングができる曲達の方がいいんじゃないかしら?

今は、そんな気がしています。

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広上・京響の第9

いい演奏会でした。

京都 京都コンサートホール
京響特別演奏会「第九コンサート」
広上淳一指揮 京都市交響楽団
京響市民合唱団、京都市立芸術大学音楽学部合唱団
フルート独奏 清水信貴
ハープ独奏 松村衣里
ダマーズ:フルート、ハープ、弦楽のためのデュオ・コンチェルタント
ベートーヴェン:交響曲第9番二短調「合唱付き」作品125

この間の日記にも書いたけれど、33年ぶりの京都での第9、当然、広上さんの第9を聴くのも初めて。

まず、ダマーズが秀逸。フルートとハープがソロをとるフランスものなんて、まあ、京響のためにあるような作品。真冬だというのに、まるで春の温かな風がふううううっと舞台から吹いてくるような、華やかな色彩に満ちたその響きは、陶然とする瞬間に事欠かない。清水さんのフルートと松村さんのハープ、このペアが京響の中にある、ということの幸せを再認識させてもらいました。

第9については、一言、「広上・京響の第9って、こんな音がするんや」・・・なにをいっとるんやと思われましょうが、これが正直な感想。

それは、まず、最初の空虚五度から昂揚して最初のフォルテに至った時の響きで思い知らされる。これを、言葉で表現するのは至難の業。ただ、明らかに、僕がこれまで聴いてきたどの第9の音とも違う、と思う。大フィルの腹に堪えるようなサウンドでもなく、いわんや昔の京響の第9の音でもない。

終演後、京都百科さんとスコッチを片手に話しあった時に、互いに意見が一致したのは、おそらくは、この音が、広上さんがこれまで4年にわたって京響と創り上げてきた「京響のベートーヴェンの音」なんだろう、と。

これまで、僕がこのブログで繰り返し書いてきたが、広上さんが来るまでの京響のベートーヴェンなんて、一人ひとりの奏者が頑張っているのはわかるけれど、それが決して良い結果につながっていない、というサウンド。硬く硬くなるばかりで、鳴らない、開いて行かない。うちの母親も、いわんやこすもすまでもが「京響、ベートーヴェンなんてやめたらいいのに」とまで言い切った音。

それが、ここまでになったんだ。

広上さんは、1楽章の複付点を、2楽章の付点八分を明瞭に振り込む。そのことで、音の輪郭が立っていく。そのくっきりしたフィギュアのなかに、整理された立体的な響きが立ちあがって行く・・・・こう表現するのが、僕としてはやっとだけれど、ああ確かにこれこそが、今の「広上・京響」の音なんだな・・・そうぐすたふくんは何度うなずき、何度その響きを聴ける幸せというものを想っただろう。

今日は、このことだけでも十分すぎる演奏会だなあ、そんな風に思いました。

総勢200人になんなんとする巨大な合唱団は、圧倒的な音圧。ただ、ソプラノがいまひとつ濁っていたのが残念かなあ。ただ、男声は60人余りの劣勢ながらなかなかに立派な歌唱を響かせていて、敢闘賞もの。拍手をおくるにやぶさかではありませぬ。

全席完売、満員御礼の会場は、第9に相応しい祝祭感を湛えたもの。でも、もうちょっと温かい拍手を盛大に送ってあげてもいいのになあ、と思ったのはぐすたふくんだけかしら。

今日の京都の第9を心にしまって、さあ、30日の大阪に向かいましょう。

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今季のセンチュリーのベスト

巧い。

大阪 ザ・シンフォニーホール
センチュリー第167回定期演奏会
沼尻竜典指揮 日本センチュリー交響楽団
第1ピアノ 児玉麻里
第2ピアノ 児玉桃
プーランク:2台のピアノと管弦楽のための協奏曲二短調
バンテュス:シネマ・ラプソディー(2台のピアノのための協奏曲)世界初演
ショスタコーヴィチ:交響曲第6番ロ短調作品54

一言・・・こういうプログラムで、こういうセンチュリーの演奏をもっと聴きたかったなあ。今日ほどそのことを思った日はない。

プーランクのなんと「見事」なことか。軽妙、華麗、エンターテイメントの極致。この曲ほど、もたもたしていたら無様なものはない。児玉姉妹のあっけにとられるほどの名技に、さらにあっけにとられるほどの名技で応える、大阪が誇る高機能オケの面目躍如。この絢爛たる音、その遊戯性、そしてその愉悦。

バンテュスの新作は、映画音楽にインスピレーションを求めた、最近のポピュラー音楽の流入顕著な「ネオ・ロマンチシズム」の非シリアス現代音楽。ジャズあり、歌謡曲ありのエンターテイメント作品だが、プーランクと並べてしまうと、同じようにポピュラー音楽が流入したエンターテイメント作品とは言っても、その出来の差は一目瞭然。はっきりいって全然記憶に残らない作品ですね。大体、二台のピアノが必要だったんだろうか。おそらくは、作曲者、当然のことながらプーランクの曲のことは知っていて、それに挑戦してみたんだろうけれど、ぐすたふくんには少なくとも不評です。世界初演だというのに作曲者本人も会場に姿なく、その点でも印象悪し。でも演奏は素敵なもの。

そして後半、ショス6もまた見事の一言。この曲、1楽章をどれだけシリアスに演奏できるか、そして3楽章をどれだけばかばかしく、しかも唖然とするくらいさああああっと巧くやれるか、にかかっているのだが、そのどちらも十二分な出来。1楽章の冷涼な肌触りといい、3楽章のドンチャン騒ぎといい、これこれ、これでなくっちゃ、であります。センチュリーの木管の巧さ、今日の演奏を聴く限りでは、この間のパリ管にもひけをとらないですよ、マジで。ストリングセクションも、びちっとアンサンブル決めて、カッコイイのなんの。

この曲、藤岡さんと関フィルで一度聴いている。それはそれで、関フィルの技術の至らなさを藤岡さんの思い入れが上回った名演だったが、そんなものがアマチュアのそれに思えてしまうような演奏でしたね。

見よ、これぞ、センチュリー・オーケストラ・・・・聴衆諸兄、喝采したまえ。

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ショスタコの6番

今週の木曜日にセンチュリーでタコ6、27日に広上・京響で第9.30日に大植・大フィルで第9。これで、今年は終了の予定です。

今年は、はっきり言って最悪の年だったです。地震もあったし、原発はまだ続いているし、プライベートでも良くないことばかり。

だから、タコ6で思いっきり悪いことを笑い飛ばして、第9を大好きな指揮者二人で聴いてお祓いして、来年に行きたいです。

だから、センチュリー、期待してますよ。

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いやいや、御見それいたしました・・・大響定期

正直なところ、楽しめました。○です。

大阪 ザ・シンフォニーホール
大阪交響楽団第161回定期演奏会
児玉宏指揮 大阪交響楽団
バリトン 小森輝彦
プフィッツナー: スケルツォ ハ短調
プフィッツナー: オーケストラ伴奏つき歌曲集より
          (作品2-2,15-2,18,25-1,25-2,26-2)
グラズノフ  : 交響曲 第4番 変ホ長調 作品48

プフィッツナーが聴きたかったのが一番。この作曲家、大学オケの後輩のホルン吹きが絶賛していたんだけれど、それくらいの認識。でまあ、この数十年、気にはしていたものの、出会いなく過ごしていたわけですよね。あと、グラズノフの4番が好きなので、この二つがそろった演奏会、ということで、今季のシンフォニカの演奏会の中では当初からチェックしていたものの一つ。

最初のプフィッツナーの曲は、まるで出来の悪いメンデルスゾーンみたいな曲。若書きの習作、とプログラムで読んで、むべなるかな。

で、やっぱり歌曲が良かった。特に、作品2-2「春の空はそれゆえこんなに青い」と、作品25-2の「嘆き」が出色。前者は、まるでマーラーのリュッケルト・リーターを思わせるような透明な抒情があり、後者の劇的な内面の表出もなかなかの聴きもの。オーケストレーションも、世紀末の同時代性を湛えていて、なかなかに聴かせます。ただ、マーラーにありそうな題材の作品25-1「ラッパ吹き」を聴いてマーラーの「少年鼓主」を思い出しつつ比較してみると、どうも表現がマーラーほどには徹底していない嫌いがあるし、作品18「月に寄す」や作品26-2「夜に」のふたつの夜を扱った歌曲も、確かに魅力的ではあるものの、同じように夜を扱った諸作と比較して、マーラーほどには透徹せず、R・シュトラウスほどには華麗ではない、ように思えてしまう。ここらへんの「不徹底さ」(プログラムには、「生真面目さ」「渋さ」とありましたが、まあ似たようなイメージです)、それが忘れられてしまった原因なんでしょうかねえ。ただ、ナチスとの関係さえなければ、ここまで不当に扱われることもなかったでしょうに、と思わされるに十分な佳曲であることは確か。これが聴けただけでも、ここに来た甲斐がありました。

グラズノフは、ちょっとびっくりするくらいの佳演。シンフォニカ、前回のフランス山人を聴いて、あまりの弦の響きの薄さとブラスのやかましさに、少々辟易して、もし今回もこんなんやったら金輪際来るのをやめようかとも思っていたのだが、今日は同じオケとは思えないような響き。やはり、これ、児玉さんの力量なんでしょうねえ。14型の弦はなかなかにふくよかな旋律を聴かせ、ブラスも抑え気味に響きを作っていて、1楽章などなかなか泣かせる演奏に仕上がってました。児玉さん、旋律の歌わせ方がとっても上手くって、このロシアの叙情交響曲、完全に手中に修めている、といった感じ。ぐっとくるんですよねえ。ただ、3楽章で、最後のティンパニがもうちょっと節度ある打ち込みをしてくれたらもっとよかったんだけどなあ。

でもまあ、満足、です。児玉さん、ありがとうございました。

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今年最初で最後の外来オケコンサート・・・パリ管京都公演

こんなに巧いオケだとは・・・

京都 京都コンサートホール
富士電機スーパーコンサート
パリ管弦楽団日本ツアー2011
パーヴォ・ヤルヴィ指揮 パリ管弦楽団
ピアノ独奏 ダヴィッド・フレイ
メシアン:忘れられた捧げもの
ラヴェル:ピアノ協奏曲ト長調
ベルリオーズ:幻想交響曲
(アンコール)
ビゼー:アルルの女から「ファランドール」
シベリウス:悲しきワルツ

振り返ってみれば、今年は一度も外来オケのコンサートに行ってなかったんですね。これも、震災の影響。よくパリ管、フルメンバーで来日してくれたもんです。

会場では、浅田彰氏とすれ違い、岡田暁生氏とロビーで鉢合わせと、京都在住の文化人がかなりご参集と見ました。今年関西に来てくれたオケでは、一番のビッグネームオケですもんね。

実のところ、この公演、今日の今日まで参加するのを躊躇していたんですよ。一つには、このごろの家庭の事情、そして僕の精神状態など、いろいろあって・・・でもまあ、行っておいでよ、とこすもすが言ってくれたんで。

率直に言って、びっくりしました。ここまで巧いオケだったとは。

フランスのオケを聴くのは、実は初めて。実際に聴いてみると、勝手に僕がイメージしていたラテン系の音(明るく軽い音)とは全く違います。ベース8本が強力に鳴る重厚な低音に支えられた、16系のストリングセクションは、むしろマッシブとも言っていい響き。しかし、一方でヴァイオリンセクションからは、骨太というよりむしろ柔らかく澄んだ音が聴こえ、このマッチングがやはりドイツ系のオケの音とは違うと思いました。でも何をおいても、このストリングセクション、上手いのなんの。

また、木管の巧さ、音色の美しさと言ったら、どう表現していいやら。特に、フルート。なんという艶やかな音!!この音、どんなにオケの響きが厚くなっても、明瞭に聴こえるんですよね。びっくりです。また、オーボエ、アングレのダブルリード陣の音色の美しさも、陶然とする、と表現するに躊躇ないです。

ブラスではペットが驚異的に上手い。ラヴェルの最初のソロを、軽々と吹きこなすのには、(期待していたとはいえ)流石としかいいようがありません。そんなもんで、ホルンやボーンやチューバは霞んでしまって、コメントできないんですけどね(笑)。

だから、全体としては、陳腐だけれど、「華麗にしてゴージャスなサウンド」と表現するの相応しいでしょう。曲目も、その魅力を存分に堪能させてくれるもの。

何をおいても、このヴィルトゥオーゾ・オケが、軽々と演奏してのけるラヴェルが今日の1番。ぐすたふくんがこれまで聴いた、この曲の演奏のベスト、です。逆に、ここまで完璧に演奏されてしまうと、え?これで終わっちゃうの、もっとやってよ、もっと!、と物足りなく思ってしまうほど。特に、3楽章、例の「ゴジラ、ゴジラ、ゴジラとメカゴジラ」が、各パートから明瞭に聴こえて、その絡みの面白さが浮き彫りになるあたりの見事さ。一方で、2楽章の木管の各ソロの筆舌に尽くしがたい美しさ(これが聴けただけでも、チケット代の元はとれます)。悪いけれど、ピアノが霞んでしまうほどで、ほとんどノーミスで弾ききったこのピアノソロが、オケ・サウンドの一つのピースにしかすぎなく思えてしまいました。

幻想は、オーソドックスなもので、ああこの音、ああこの音、とうなずきつつ、また見事な演奏だなあと感心して聴きつつ、でもまあ整った佳演ってところかいなあ、などと極道ぐすたふくんが斜めにかまえていたんですが・・・・5楽章になって魔女のロンドになった途端、いきなりベースがトップを初め全身でぐいぐいと突入を開始。おおおお、と思っているや、そこからオケ全体に火がつき、そこからはもう怒涛の音楽の嵐。弦セクションのトップから最後尾までが体を揺らしての熱演となり、まあ凄かったですねえ。ここまで巧いオケが、まさに一糸乱れず、前へ、前へと突き進む様の、なんと見事なこと。最後のコードが鳴り終わったとたん、思わずぐすたふくん、あきれるやらなんやらで大笑いしてました。会場はそれこそ、ブラボーの嵐、でしたね。

アンコールのファランドールも素敵だったし(あまりにオケが走ってしまって、ボーンが置いてきぼりになりかけたのはご愛敬)、シベリウスも普段聴けないような音(ホルンの響きが独特)も素敵でした。

長い長いカーテンコール、ヤルヴィ氏の合図でオケ全員がくるりとバルコニーに振り返って挨拶をしてくれたのも、高感度大。ここまでやってくれたのは、ここが初めてなような気がします。

パリ管、ありがとう。今の日本に来てくれたこと、心から感謝。

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神はさらに微笑む・・・大フィル定期二日目

今日もまた、至福の時間。

大阪 ザ・シンフォニーホール
大フィル第453回定期演奏会
大植英次指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
テノール ジョン・ヴィラーズ
メゾソプラノ 小川明子
シューベルト:交響曲第5番変ロ長調D.485
マーラー:交響曲「大地の歌」

やはり何をおいても、「大地」の6楽章、それも最後の長い長い絶唱とそのあとの嘆息のおりなす、青く透明に浄化された時間の美しさ。

昨日もじんと胸に沁みたのだけれど、きょうはまた、そこに至るまでの歩みと、そして間の取り方がさらに深化したように思います。明らかに無音の時間が長くなった。昨日演奏自体が終わったのは僕の時計で9時5分前だったが、今日はほぼ9時。これはひとえに6楽章の演奏時間が長くなったことに起因するんじゃないかしら。

実のことを言ってしまえば、小川さんの声は2曲目の出だしを聴いたときに、どうしても「女声」でありすぎる、と僕には聴こえてしまい、ああこれがシュツットマンだったら、と思っていた(昨日は)のは事実です。特に、前半においてはヴィラーズ氏が絶好調(今日の1楽章もまあ、パワー全開でしたねえ)で、このパワーと表現力に拮抗するには、前半ではつらい(これは曲調のせいも、多分にあるのだが)。ただ、今日は、小川さん、2曲目に於いても昨日以上の存在感を放っていて、ああ、これはやはり昨日の6楽章の演奏が今日へとつながっているのだなあ、と思わされましたね。

昨日は、2曲目を聴いたあと、シュツットマンの声のことを遠くに懐かしんでいたりしたのだけれど、今日はもう、そんなことは飛んでしまって、ただただこのメンバーでの色彩感あふれる「大地」をまた今日も愉しませてもらえるのだなあ、と思いつつ、座席に身をゆだねていました。時が過ぎるのを忘れる、とはこのこと。この時間に身を置けることの、何と幸せなことか。

ただ、少々意地の悪いことも言うと、3楽章から5楽章のアンサンブルやオケと歌との絡みが、もうちょっと上手くいってほしいなあ、と思ったのは事実です。ちょっとぎくしゃく感が漂う、んですよね。加えて、あれほど地響きを立てて地の底から屹立してきたテノールが、あの5楽章でちょん、かよ、と。でもまあ、多分にこれも曲のせいがあるし、この後に6楽章の名演が聴ける、と今日はわかって座っているからそう思うのかもしれませぬが。

演奏終了時、昨日以上の名演に、今日の会場のスタンディングは、当然昨日以上。いや、もっと立っても良かったと思うなあ。全員総立ち、になっても良いくらいと思ったんですけどね(昨日思わず立ち上がったぐすたふくんは、今日は自重させていただきましたが(笑))。

この大地を二夜連続して聴けることの、何という贅沢なことだろう!!!

愛する音たちは ここ大阪の地で
素晴らしき人により 花咲き、緑に萌える!
どこまでもどこまでも、永遠に永遠に、青く輝く
永遠に 、永遠に
永遠に、永遠に


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アクシデントが起こした奇跡、ふたたび・・・・大フィル定期

複雑な思いを抱きながら参加した演奏会、結果は・・・

大阪 ザ・シンフォニーホール
大フィル第453回定期演奏会
大植英次指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
テノール ジョン・ヴィラーズ
メゾソプラノ 小川明子
シューベルト:交響曲第5番変ロ長調D.485
マーラー:交響曲「大地の歌」

本来、メゾソプラノを歌うはずのナタリー・シュツットマンが体調不良で降板・・・はっきり言いましょう、ぐすたふくん、申し訳ないが「体調不良」がどのような体調不良なのか、察しはつきます。

本来なら、大植さんが最後の年に「大地の歌」をどのような思いで持ってきたか、そして、そのためにナタリー・シュツットマンにどうしてもやってほしかったか、そのことは痛いほどわかる。そして、それが叶わなかったとき、もしそれが僕なら、やり場のない思いにやりきれない気持ちになるだろう。

そんな代役を引き受けるということが、どれほど「重い」ことであったか・・・そして、今回代役を引き受けられた小川さんが、あだやおろそかな気持ちで引き受けたのではない、そしてそれを今回全うされたことに、まず、ぐすたふくんは心からの敬意を表したいです。

結論から言いましょう。今日の演奏会は、6楽章、それも最後の最後に奇跡が起きた。

Die liebe Erde alluberall
Bluet auf im Lenz und Gruent aufs neu!
Allueberall und ewig blauen licht die Fernen,
Ewig...Ewig!

愛する大地は 至る所で
春来りなば花咲き、新緑に萌える!
どこまでもどこまでも、永遠に永遠に、青く輝く
永遠に 、永遠に
永遠に、永遠に



アクシデントが起こした非常事態、想定外の状況での演奏会の本番。本当なら暗譜で望んでもおかしくない大植さんは、スコアを目の前に置き、6楽章はそれこそ逐一ページをめくりながらの指揮。いくらレパートリーとはいえ、ほんの数日前に振ってわいた仕事、そこからまさに突貫工事のようにさらった歌。しかも、6楽章はほとんど30分間の孤立無援・・

・・・この状況は、まさに数年前のブラ4に匹敵するとしても過言ではない状況、でなかったか。

でも、そこにしか舞い降りることのない音楽の神も、また居る。

今日の演奏会、あの時大植さんの居ない指揮台の上におりたった神が、ふたたび小川さんの肩に両手を置いたのを見たような気がしました。

また明日聴きに行きます。今日はこのくらいで。

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これぞ、文化祭・・・国民文化祭オペラ 魔笛

不思議な縁と、そして出会いと再会と。

京都 こども文化会館エンゼルハウス大ホール
第26回国民文化祭京都2011 まゆまろチャレンジ京都文化力発信事業
NPO法人オペラプラザ京都第9回公演
モーツァルト;オペラ「魔笛」

もうほんとに、山のような人たちが関わった「文化祭」の香り満載、アマチュアリズム満載の公演でした。

歌手の人たちはプロからセミプロからアマチュアまで多種多様。いや、その頑張りには脱帽。そしてなによりオケが僕の母校高校オケ!!この公演、3公演あるのだけれど、そのそれぞれに違う高校のオケがやる、というのがなんともチャレンジングな企画なんですよ。

大体、オペラの伴奏を、普通高校のクラブ活動のオケがやるなんて、まあ前代未聞。しかも、3時間近くかかる「魔笛」、も一つ言うなら、高校オケでは滅多に取り上げないモーツァルト!!!よくまあ、この企画を、うちの高校のオケが受けたもんだ。

で、どんなもんかいなあと不安半分で望んだのだが・・・・まあ、びっくり。やるじゃあないの、凄いなああ。ヴァイオリンを始めとして弦がそれなりの音をきかせるんですよ、御見それいたしました。ペットとホルンとティンパニもメリハリがあって、上手かったねえ。正直びっくりです。こんなに長い時間演奏することなんて、おそらくは彼らにとっても、そしてうちの高校オケの歴史にとっても、空前絶後でありましょう。

実は、この公演、なんで行くことになったかというと・・・・りんりんの声楽の先生が、歌手の一人で出演してるからなんですよ。りんりんからその話を聴いたとき、一も二もなく、家族で一緒に聴きに行こう!!と叫んでましたね。

縁、とは不思議なものです。りんりんが声楽を習わなければ、そして習った先生がこの人でなければ、僕はここに居ることはなかっただろう。

オケピットにずらりと並ぶ、僕の母校の制服を着た高校生たち。僕も、あの制服を来て、あの群れの中に居たことがあったんだよね。休憩時間には、「なんやお前!」・・・いやいや、なんやじゃないですよ、Ogi先生、End先生、そしてAna校長先生。娘が声楽をやっててですね・・・・・僕はすっかり禿げたオヤジになっちゃったですけれど。

オペラの中、そしてカーテンコールで、会場みんなで歌いました。

「綺麗な 音だ、何だろ これは
ラララーララ、ラーラララ、ラーラーララー
絶えて 聴いた 事も ない
ラララーララ、ラーラララ、ラーラーララー」

ふっと横を見る。りんりんの歌声と、そしてその笑顔がまぶしい。今、君が光のまっただ中にいるんだね。かつて、僕もその光の中にいたように。

終演後、ロビーで衣装のままのりんりんの先生と握手・・・「ご出身なんですってね!上手かったですよ、一回も止まらなくって!」いやいや、そのお言葉、私でなく彼らに言ってやってください。これだけのことを、高校生活を送りながら成し遂げた彼らに。それがどれほど大変だったか、僕には身に沁みるように分かりますから。

みなさん、お疲れさまでした。そして、成功、おめでとうございます。かけがえのない時間、かけがえのない人生。音楽が皆さんとともにありますように。

そして、行きましょう、音楽の平和のうちに。

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やはり、なにわのストコフスキー、と言わせてくださいませ・・・大フィルチャイコフスキーセレクションNo.3

大植さんは、こう言われるのを嫌がるらしいけれど(笑)

大阪 ザ・シンフォニーホール
大フィル チャイコフスキーセレクションNo.3
大植英次指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
チェロ独奏 セルゲイ・アントノフ
チャイコフスキー:ミステリーピース第3弾
チャイコフスキー:ロココの主題による変奏曲イ長調作品33
チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調「悲愴」作品74

ミステリーピースは、なんと交響曲第7番「人生」第1楽章!!なんかの演奏会序曲みたいな雰囲気で、妙に明るいなあと思って聴いていたのだが、まさかまさか。随分前に、大阪で西本智美さんがロシアのオケを振って演奏してた筈だが、それを聴いた人なら簡単に分かったかもしれないなあ。

今日は、終演後に解答の発表があって、正解者はなんとただ一人!!(この人は、3回連続正解のたった一人だそうな)。10g8万円のロシア産キャビアを大植さんから客席で手渡されてました。すごいなあ、結局、ぐすたふくんは3連敗(泣)。

で、あとの2曲なんだけれど・・・・結論から言うと、うーーん・・・・ちょっと期待が大きすぎたかも(笑)。

「悲愴」良かったと思いますよ。でも、ちょっと今日はストコフスキー、やりすぎだったかも。1楽章、本来ならすうううっと通すところも、ねっとりねとねととテンポを揺らすもんで、音楽の流れがせき止められてしまって、ちょっと息苦しかったり、あんまり気持ちがよくなかったり。確かに、激しい中間部の最後、低音ブラスの咆哮に至る前を細かく振って音楽を追い込んで行って、その頂点でエネルギーを解放するあたりのカタルシスなど、さすが大植英次、やりますなあ、と思ったところも少なくは無かったのだが、ちょっとね、という感じ。

そして、終楽章もまた、アンダンテでやります、とプログラムに書いていた割にはテンポは遅く、かといってアダージョでもなく、という微妙なテンポ設定の中、どうせここまで濃くやるのなら、いっそのことアンダンテになんかこだわらず、とことん遅くやった方がもっともっともっともっと感動的な精神の叫びが聴けたんじゃないか、と思ってしまったりなんかしたり・・・あああああああ、ごめんなさい、ごめんなさい、ここまでいい演奏を聴かせてもらったのに、こんなこと言ったりして、なんて嫌味なクラオタぐすたふくんなんでしょう!!

だから、実は中間の二つの楽章が魅力的だったです。大植さんの濃い味付けを施されたこの二つの楽章、聴いていてマーラーの響きが聴こえてくるような気がして・・・2楽章の5拍子のワルツには、復活の2楽章のエコーが聴こえるし、3楽章の怒涛の行進曲の狂ったような早いテンポは、まるでマラ9の3楽章のブルレスケ(クライマックの頂点で一瞬テンポを落とす、この抜群の演奏効果には度肝を抜かれました)。

終演後のトークの中、「’悲愴’は、’悲劇的’という意味ではなくて、そこに力強い生の肯定がある」というようなことを言っておられたが、マラ9の中に生の肯定を描いた大植さん、悲愴とマラ9に、共通するドラマツルギーを感じているのかなあ、とも思いました。でも、どう聴いても、悲愴の最終楽章には、あのマラ9に聴いたような生の光は見えなかったですけどね。

聴き終わった感想は、ええええええええ、これで終わるのおおおお。これで最後おおおおお・・・・・またもう一回やってほしいなあ・・・・そんなこと思うんだったら、京都公演の時だとか、大阪クラシックのときだとか、スマトラ地震チャリティーの時だとかに、ちゃんと聞きに行っておきなさいよ、って言われますねえ。こういう機会を全部逃したんで、大植さんの悲愴は今回がはじめてになっちゃったんですよね、ぐすたふくんは。

これらの、これまでの悲愴を聴いたことのある人の感想が知りたいなあ、と思いましたが・・・どなたか、コメントいただけませんかねえ。

さて、ロココの方ですが・・・・この曲、やっぱし、PコンやVnコンに比べると、魅力が2段ぐらい落ちますね。全体にのんべんだらりとして、曲としての面白みには欠けるから、勢い、その魅力はソロの名技性にほとんどかかってくる。その意味で、このシリーズの中では一番アントノフ君が大変だったと思うなあ。

で、非常に甘い美しい音が出せる人で、テクニックも最上級。ただ、欲を言うなら真面目に過ぎて、Vnコンをやったボリス・ベルキンのような、アグレッシブさがもっと前にでる局面もあったなら、もっと面白く飽きずに聴けたかもしれないなあ、とは思いました。でも、これも、よくまあそんなこと言うなあ、というようなもんですがね(笑)。アンコールでやった最終変奏が、テンポアップしたがために大フィルとやりあいになってて面白かったし、本チャンの演奏でもこんなところがあったらよかったなあと思ったりしてました(なんてこと言うんや)。

でも、大植さんも言ってたけど、ベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキーと、ひとつひとつじゃなくって、全部やった、そのことが意義深いこと。ぐすたふくん、全部皆勤。そう、これも良い思い出、かけがえのない記憶。

大植さん、お疲れ様。どうも有難うございました。

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