不惑わくわく日記

大阪でコンサートをあさっています。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

バルトークの弦楽四重奏曲

このHPをぐすたふくんが始めたころ、「バルトークの弦楽四重奏曲がわからない!!」「これを素晴らしいとみんなが言う理由がわからん!!!」「でも、修行だと思って、毎年1回は全曲聴くことにしてるんだ!!!」と叫んでいたことを覚えておられる読者の方がおられたら、随分と長いおつきあいをいただいているものと思います(笑)。

実は、今でも決して「わかった」わけではないし(音楽とは「わかる」ものなのか、という問いもあるでしょうが)、好きか、と聴かれると、やはり答えに窮するのだが、この7年間で随分と素直に聴けるようにはなりました。

これだけこの曲を聴くことを自分に課してきて、ひとつ確として僕が言えることは、「この6曲を、続けて聴いてはダメだ」ということですね。一つ一つがベートーヴェンのカルテットに比較して短くて、CDの中に3曲ずつ入っているものだから、どうしても続けて聴いてしまうのだが、そうすると「感じられるものも感じられなくなってしまう」。各々の曲が(陳腐な言い回しだが)それぞれの小宇宙を有しているこの作品群、一つの曲を聴いたら、ゆっくりとヘッドホンを外し(スピーカーで聴くには少々家族への遠慮が(笑))、コーヒーなり紅茶なりを入れて、曲の余韻と聴くことで自分の心の中に生じた揺らぎのようなものに時間をかけて浸る。そして、おもむろに次の曲に取りかかる。そういうことを繰り返すことで、やっとぐすたふくん、受け入れられるようになってきた、と思います。

でも、ぐすたふくんをここまで難渋させたこの四重奏曲群(だってバルトークの他の曲、管弦楽曲や協奏曲なんかは、ずっと容易に親しむことができましたもの)、そのこと自体が、これらの曲がバルトークの作品の中でも図抜けたものだ、ということを意味しているのかもしれないなあ、と思ったりもします。

そうしていると、最近こんな文章を見つけて、深く感じ入った次第(http://www.yung.jp/yungdb/op.php?id=427&category_id=5)。無断で申し訳ないのだけれど、転記させてもらいます。

*************
「バルトークの弦楽四重奏曲は、この形式による作品としてベートーベン以降最大の業績だといわれています。ところが、「そんなにすごい作品なのか!」と専門家の意見をおしいただいてCD等を買ってきて聞いてみると、思わずのけぞってしまいます。その「のけぞる」というのは作品のあまりの素晴らしさに感激して「のけぞる」のではなくて、作品のあまりの「わからなさ」にのけぞってしまうのです。
音楽を聞くのに、「分かる」「分からない」というのはちょっとおかしな表現ですから、もう少し正確に表現すれば、全く心の襞にふれてこようとしない「異形の姿」に「のけぞって」しまうのです。

「とにかく古典派やロマン派の音楽に親しんできた耳にはとんでもなく抵抗感のある音楽です。そこで正直な人は、「こんな訳の分からない音楽を聞いて時間を過ごすほどに人生は短くない」と思ってプレーヤーの停止ボタンを押しますし、もっと正直な人は「こんな作品のどこがベートーベン以降の最大の業績なんだ!専門家の連中は馬鹿には分からないというかもしれないが、そんなの裸の王様だ!!」と叫んだりします。
*************

ここら辺のくだり、ホントに大きくうなずいてしまいますね(笑)

*************

「しかし、作品そのものに関する専門家の意見というのはとりあえずは尊重しておくべきものです。伊達や酔狂で「ベートーベン以降の最大の業績」などという言葉が使えるはずがありません。今の自分にはとてもつき合いきれないけれど、いつかこの作品の真価に気づく日も来るだろう!ということで、とりあえずは買ってきたCDは棚にしまい込んでおきます。
そして、何年かしてからふと棚にバルトークのCDがあることに気づき、さらに「ベートーベン以降の最大の業績」という言葉が再び呪文のようによみがえってくるので、またまた魔が差してプレーヤーにセットすることになります。しかし、残念なことに、やはり何が何だか分かりません。
そんなときに、また別の専門家のこんな言葉が聞こえてきたりします。
「バルトークの弦楽四重奏曲を聴いて微笑みを浮かべることができるのは狂人だけかもしれない。」
「バルトークの弦楽四重奏曲は演奏が終わった後にやってくる無音の瞬間が一番美しい!」
全くもって訳が分からない!

しかし、そんなことを何度も繰り返しているうちに、ふとこの音楽が素直に心の中に入ってくる瞬間を経験します。それは、難しいことなどは何も考えずに、ただ流れてくる音楽に身を浸している時です。
おそらく、すごく疲れていたのでしょう。そんな時に、ロマン派の甘い音楽はかえって疲れを増幅させるような気がするので、そういうものとは全く無縁のバルトークの音楽をかけてみようと思います。ホントにぼんやりとして、全く何も考えずに流れきては流れ去っていく音の連なりに身を浸しています。すると、何気ないちょっとしたフレーズの後ろからバルトークの素顔がのぞいたような気がするのです。
それは、ヨーロッパへの訣別の音楽となった第6番の「メスト(悲しげに)」と題された音楽だけではなく、調性が破棄され、いたるところに不協和な音が鳴り響く3番や4番の作品からも感じ取れます。もちろん、それらの作品からは、「メスト」ではなくて「諧謔」や「哄笑」であったりするのですが、しかし、そういう隙間から戦争の世紀であった20世紀ならではの「悲しみ」の影がよぎったりするのです。
今までは全くとりつくしまのなかった作品の中に、バルトークその人の飾り気のない素顔を発見することで、なんだか「ウォーリーを探せ!」みたいな感じで作品に対峙する手がかりみたいなものを見出したような気がします。

そんなこんなで、聞く回数が増えてくるにつれて、今度はこの作品群に共通する驚くべき凝集力と、「緩み」というものが一瞬たりとも存在しない、「生理的快感」といっていいほどの緊張感に魅せられるようになっていきます。そして、このような緊張感というものは、旋律に「甘さ」が紛れ込んだのでは台無しになってしまうものだと納得する次第です。
また、専門書などを読むと、黄金分割の適用や、第3楽章を中心としたアーチ型のシンメトリカルな形式などについて解説されていて、そのような知識なども持ってバルトークの作品を聞くようになると、流れきては流れ去る音の背後にはかくも大変な技術的な労作があったのかと感心させられ、なるほど、これこそは「ベートーベン以降最大の業績」だと納得させられる次第です。

ざっと、そんなことでもなければ、この作品なじむということは難しいのかもしれません。
ユング君にとってバルトークの音楽は20世紀の音楽を聞き込んでいくための試金石となった作品でした。とりわけ、この6曲からなる弦楽四重奏曲は試金石の中の試金石でした。そして、これらの作品を素直に受け入れられるようになって、ベルクやウェーベルンなどの新ウィーン学派の音楽の素晴らしさも素直に受け入れられるようになりました。
音楽というのは、表面的には人の心にふれるような部分を拒絶しているように見えても、その奥底には必ず心の琴線に触れてくるものを持っているはずです。もし、ある作品が何らかのイデオロギーの実験的営みとして、技術的な興味のみに終始して、その奥底に人の心にふれてくるものを持たないならば、その様な作品は一時は知的興味の関心を引いて評価されることがあったとしても、時代を超えて長く聞き続けられることはないでしょう。なぜならば、知的興味というものは常に新しいものを求めるものであり、さらに新しい実験的試みが為されたならば古いものは二度と省みられることがないからです。
それに対して、一つの時代を生きた人間が、その時代の課題と正面から向き合って、その時代の精神を作品の中に刻みこんだならば、そして新しい技術的試みがその様な精神を作品の中に刻み込むための手段として活用されたならば、その作品の価値は時代を超えて色あせることはないはずです。その刻み込まれた精神が、それまでの伝統的な心のありようとどれほどかけ離れていても、それが時代の鏡としての役割を果たしているならば、それは必ず聞く人の心の中にしみこんでいくはずです。

おそらく、大部分の人はこの作品を拒絶するでしょう。今のあなたの心がこの作品を拒絶しても、それは何の問題ではありません。心が拒絶するものを、これはすぐれた作品だと専門家が言っているからと言って無理して聞き続けるなどと言うことは全く愚かな行為です。
しかし、自分の心が拒絶しているからと言ってそれをずっと拒絶するのはもったいなさすぎます。
人は年を経れば変わります。
時間をおいて、再び作品と対峙すれば、不思議なほどにすんなりとその作品が心の中に入ってくるかもしれませんし、時にはそれが人生におけるかけがえのない作品になるかもしれません。
心には正直でなければいけませんが、また同時に謙虚でもなければいけません。そのことをユング君に教えてくれたのがこの作品でした。

*******************

深い洞察と、そして真摯な内観に満ちた、素晴らしい文章だと思います。

いつか、ここまでの境地に到達したいものであります。
スポンサーサイト

PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する
 

ぐすたふさま こんばんは

ユングさんのページ、新しい何かを書いておられないかなあ、と実は毎日たたいています。むろん曲も聞かせてもらっています。

ユングさんからはしばしば『吉田大明神』というせりふが出てきますが、企業が複製能力を独占していた時代の吉田秀和が旧約ならば、ネット時代の、パブリックドメイン時代のユングさんは新約にあたるのだろう、とおもいつつ、記事を拝見しているという次第なのです。

バルトークのSQについては、意外と抵抗なく聞いてしまいますが、謙遜ではなくて、論ずるだけのものが私にないからなんですね。または強く好きでもなく、拒絶するでもなく、かもしれません。

古都百話 | URL | 2010-08-22(Sun)01:05 [編集]


Re: タイトルなし

京都百科さん、おはようございます。

> ユングさんからはしばしば『吉田大明神』というせりふが出てきますが、企業が複製能力を独占していた時代の吉田秀和が旧約ならば、ネット時代の、パブリックドメイン時代のユングさんは新約にあたるのだろう、とおもいつつ、記事を拝見しているという次第なのです。

そうでしたか。この方の文章、実にまっすぐで、妙な衒いもなく、そして示唆にも富み、感じることが多いです。京都百科さんの指摘、確かにその通りかもしれません。

> バルトークのSQについては、意外と抵抗なく聞いてしまいますが、謙遜ではなくて、論ずるだけのものが私にないからなんですね。または強く好きでもなく、拒絶するでもなく、かもしれません。

論ずるだけのものが私にあるとも思いませんが(笑)。でも、バルトークのカルテットと対峙するとき、私は存外、自分にとって音楽とは、という問題に対峙しているような気がします。なぜ私は、クラシック音楽を聴いているのか・・・・他にも音楽はいくらでもあるのに、一体何が楽しくて私はこんな音楽を聴いているのか。何のために、とは問わないにしても。

またこのことについては、改めて、ブログの中で語る時がくるのかもしれません。

ぐすたふ369 | URL | 2010-08-22(Sun)09:37 [編集]


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。