不惑わくわく日記

大阪でコンサートをあさっています。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

これは一つの到達点なのか、それとも経過点なのか・・・京響定期

今日の演奏会のプログラムで満員御礼になる、というところに最大の意味があるように思います。

京都 京都コンサートホール
京響第537回定期演奏会
広上淳一指揮 京都市交響楽団
ピアノ独奏:アリス=沙良・オット
シベリウス:交響詩「フィンランディア」
グリーグ:ピアノ協奏曲イ短調作品16
バーンスタイン:交響曲第1番「エレミア」
(アンコール)グリーグ:組曲「ホルベアの時代から」よりアリア

祇園祭の山鉾巡行の余韻さめやらぬ、観光客でいっぱいの京都市内を突っ切ってコンサートホールへ。この日程、おそらくは偶然だったのだろう、とは思うものの、結果としてコンサートホールの中も一杯のひとでお祭り気分ですね。

さて、最初に書いたように、今日のプログラム、一昔前であったら、到底一杯になどならなかっただろう。それが、完売という事実をどうとらえるか。広上淳一という存在を京都の聴衆が認めた、ということなのか?それとも、京響の地力が上がったことが周知徹底されたことによるものなのか?いかにして、みんなやってくる気になったのか?そこら辺が、知りたいものだなあ、と思っているぐすたふ君なのでありまする。

ぐすたふ君は、もともとは大阪で聴衆となる、と心に決めた人。大フィルに大植さんがやってくると決まった時の大阪の高揚感などは肌で感じていたわけで、それについては同時代感や共有感などがある。一方、京響に関しては、やはり少し自分はアウトサイダーだなあ、という感覚があるんですよ。今日も、ある意味、少し引いた姿勢で臨んでいた、というのは否定しません。

そんなぐすたふ君にすら、今この曲を京都で演奏することの意味というものを、否が応でも感じさせる「エレミア」の存在感・・・・今日の演奏会は、この「エレミア」がすべてであった、と言い切っていいと思う。そんなことを別にしても、この曲をこれだけの演奏で聴かせてもらえた、ということを素直に感謝してもいい。

エレミアについて書く前に、前半の2曲について、明後日にも聴く(大阪公演にも行くんです)ので、簡単なコメントで済ませると・・・・

やはり、京都コンサートホールでは1曲目が鬼門だなあと。良くなかったです、フィンランディア。振ってる広上さんの背中から、おかしいなあ、こんなはずやないのに、っていうのが伝わってくるし、コンマスの渡辺さんからも、おかしいなあ、こんなはずやなかったのに、っていうのが伝わってくる。どうにも「まとまらない」んですよね、良く鳴ってはいるのだが、弦の音の乗っかりが上滑りで。悪い時の京響サウンド。この現象、しばしば起こるような気がするなあ。「京都コンサートホール現象」と呼ぼうかしら。幸い、明後日シンフォニーホールで同じ曲が聴けるわけで、そこらへん確認しようと思ってます。

グリーグは、編成が急に小さくなったのにはびっくり(16型から10型になったんじゃないかしら?)。実は、このコンチェルト、プロオケでライブで聴くのは初めてなもので、その意味では楽しみました。思っていたよりも、ずっと澄んだ音がするんだなあ。ただ、若干22歳のソリスト、テクニックはなんの不足もなく、こんな人がよくもまあ次から次からでてくるもんだ、と感心した一方、嫌味なクラオタぐすたふくんはこんなこと思ってたりしたんですよ・・・「まあ、そら、ようひけたはりまっけど、ちょっと音楽に余裕がないというかなんというか・・・・聴いててどうにも、肩が凝ってしもうて・・・・もうちょい、こうおおらかに、というか、ふくよかに、というか、そういう幅のある歌がその中に宿ってくれはった方が、聴いている方としてはよろしおますねんけどねえ。チャイコフスキーじゃあれへんねんし、なんていうか、グリーグの空気感みたいなもんが、もうちょっと感じられへんもんかしらねえ・・・」・・・・あああああああ、ごめんなさい、ごめんなさい、なんていやあなおじさんなんでしょう!!!明後日も聴きますから、許してくださいませ(^^)。

さて、改めて「エレミア」です。

一言で言ってしまえば、「京響の弦の響きが巧く鳴れば、こういう曲にはこれ以上無い、と思うほどのクールな効果が得られる」「また、広上淳一のリズム感はそれだけで音楽を成り立たせることが可能で、2楽章のようなアメリカン・ポリリズムはまさに独壇場であると言っていい」「それに付いていけるだけの技量を有する(関西随一の)ブラス・セクションの爽快なサウンドは、いつもながら見事の一言」「そして、中低音域で下手をすればオケの響きに埋没しかねないようなフレーズを、しっかりとうき立たせるだけの芯のある音を持つフルートをはじめとして、木管の表現力の幅の広さは、この曲の陰影をくっきりと浮かび上がらせている」

こう書いて、京都百科さんのリハーサルの記事(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1538470143&owner_id=15367165)を今一度拝見したが、やはり、と思いました。

京響の美点、はこのエレミアのなかに、まさに集約されていたと評しても、過言ではありますまい。広上淳一という指揮者のそれもまた。そういう意味では、今日の演奏、この二つの魅力が互いにそれぞれを高めあい、ひとつの止揚へと達した、と評することも可能かもしれない。僕がこのペアに聴きたいと欲する、まさにその音が聴けた、と思います。これは到達点なのか、それともまだこれより先に彼らは行くことができるのか。

京響の冷涼なサウンドは、こういうモダンな作品にこそふさわしい、とは以前から繰り返し書いていることだが、今回のプログラム、シベリウス→グリーグ→バーンスタインという流れとシベリウス→グリーグ→シベリウスという流れが併置されたことも興味深い。「京響には北欧の音がよく似合う」とは以前より僕が主張していることだが、バーンスタインがロシア系ユダヤ移民の出身であること、影響を受けたコープランドもウィリアム・シューマンもそうだ、ということを思えば、やはり「北の響き」がこのオケにはする、ということなんでしょう。そういうことは、美点として特徴として、そして魅力やセールスポイントとして、京都の聴衆に認知されてしかるべしだし、これからも大切にしていっていいと思う。

一方で、通して聴いたとき、「エレミア」という曲、これがすでに「20世紀の古典」だ、ということも強く思いました。21世紀のコンサートオケは、20世紀の曲を古典としてレパートリーにする義務がある、とは常々僕は思っているが、広上・京響の演奏は、この曲に「バーンスタインの使徒」のニッチな所有物としての価値ではなく、「古典」として生き残るに値する存在感と生命力を付与するもの、と評しても良くはなかったか。実際、かなりの人は、そう聴いたんじゃないかしら。拍手も極めて盛大なものでしたからね。

できるなら、こういう「大阪には無い音」「大阪では聴けないだろう曲目」、関西の聴衆にもっと知られて、関西の財産として共有できたらなあ、とも思います。

これほどのエレミアがたった一回のコンサートで終わってしまうことは、極めて残念で・・・やはり、京都定期と大阪定期を同じプロでやること、真剣に考えていただいてもよろしいのではないかと思いまする。
スポンサーサイト

PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する
 

ぐすたふさま こんばんは ありがとうございます

拝見させていただきました。

フィンランディアで「京都コンサートホール現象」、出てしまいましたか。去年6月のキューバ序曲での発現、これは練習を聞いていませんでしたが、とくに今年3月のプッチーニは、練習の時との落差を見ておりましたから、今回ももしや、とじつは密かに心配しておりました。

しかし法則性のある現象は対処の仕方があるはず、では・・・


しかしなによりエレミアですね。カントクの意思、指示がきちんと形になつていたようで、うれしい限りです。大阪もこれで勝負できるようになったら、本当にすばらしいのに!

ところで自己宣伝で恐縮ですが、上記でご紹介を頂戴したミクシィの記事元は

http://musikverein-kyoto.blogspot.com/

ですので、こちらご覧のみなさまには、本家にもぜひお立ち寄りを。

古都百話 | URL | 2010-07-18(Sun)01:44 [編集]


Re: タイトルなし

京都百科様、おはようございます。コメントありがとうございました。

> フィンランディアで「京都コンサートホール現象」、出てしまいましたか・・・とくに今年3月のプッチーニは、練習の時との落差を見ておりましたから、今回ももしや、とじつは密かに心配しておりました。
> しかし法則性のある現象は対処の仕方があるはず、では・・・

聴いている方は明らかに分かっている(二人の別々の人間が、独立に同じことを言っている、ということは、かなりの確率で真実なんですよ)のですが、演奏している方がどの程度感じているか、ですね。変やなあ、程度かもしれない。そうすれば、対処は困難かもしれないです。むしろ、そういうことが起こりにくい曲を選んだほうが賢いかもしれません。究極を言ってしまえば、毎回オープニングの曲、というのを設定した方がましかもしれない、とまで思いました。

> しかしなによりエレミアですね。カントクの意思、指示がきちんと形になつていたようで、うれしい限りです。

記事に書いておられた、「この注意を受けて、早い5拍子の箇所がはじまると、その細かい音符の動きが、まるで呪文のやうに聞こえてくる。ここが呪文に聞こえてくるとなると、他の箇所は、さまざまな言語に聞こえてくる。旋法からしてもそのやうに書かれてゐるのだらう」ここらへんは、帰ってきて読み直し、確かに、と大きくうなづきました。実際のテンポは、私は決して早くは無かったと思いますが、そこらへんは、京都百科さんでないとわからないですよね。

>大阪もこれで勝負できるようになったら、本当にすばらしいのに!

というより、大阪の聴衆としてはそうなってもらわないと、困る、と思います。関西の一員として、もっと打って出てもらわないと。

それが互いのためだと思います。

ぐすたふ369 | URL | 2010-07-18(Sun)07:59 [編集]


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。