不惑わくわく日記

大阪でコンサートをあさっています。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

今年の外国人指揮者のラスト・・・大フィル定期

実は、今年初めてのこすもすとのデートコンサート(^^)

大阪 ザ・シンフォニーホール
クリストフ・アーバンスキ指揮大阪フィルハーモニー交響楽団
ピアノ独奏:ペーテル・ヤブロンスキ
キラル:オラワ
ショパン:ピアノ協奏曲第2番ヘ短調作品21
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番ホ短調作品93

今年は、客演外国人指揮者は3人。いずれも若い人で、おそらくこれは、監督の意向が強く働いているのじゃないかなあ。特に、前回のフルシャ君と今回のアーバンスキ君はともになんと20代!!!

で、この二人が選んだ曲が、「お国もの」もしくはそれに近いラインアップで、かつかなりの自信のあるものをメインに据えている、と思われる点で共通している。実際、今回のアーバンスキ君はポーランドの出身で、選ばれたのが前半のポーランドもの2曲とソビエト東欧ものと言っていいショス10という組み合わせ。監督が、そうしてくれ、と言ったんじゃないかなあ。オケ、聴衆、双方のために。ここまでいろいろと聴いてきたけれど、やはり「お国もの」がもつ魅力・「お国もの」でなければ存在しえない音楽、というものが厳然として存在するのは事実だし、指揮者のここぞという「勝負曲」の放つ光彩の見事さはほかに代えようのないものだ、と思うもの。

僕がそう思ったのは、ひとえにショス10の出来の故。ショス10、正直に告白してしまうと、ぐすたふ君、昔から苦手なんですよ。これ、何回かこの日記に書いているから、またか、と思われるかもしれないが、この曲の私小説的暗さ、やたらに神経に障るんですって。だから、自分から滅多に聴こうとは思わない。

で、ショスタコの魅力というもの、こういう暗い深刻な曲を徹底的にエキセントリックにやることで現出する面があることは、僕は否定しない。嫌いだ嫌いだ、といいながら、実際にそういう音楽の圧倒的な闇の力を目の前にしたとき、その抗しがたい感動に身を震わすことになる自分も知っているんです(なんという矛盾した感情!!)。

この若い指揮者が、ついこの間大フィルがやったばかり(記録を見ると、2004年のヘンリク・シェーファー指揮でやっている。大植さんが聴きに来てたやつですね)のショス10を振る、となると、さてどうなるんかいなあ、という(まあ生意気な!!)斜めに構えた感じで臨んだわけですよね。

当然、先入観で臨むと、さっきも書いたように、フルボリューム振り切れの絶叫調・佐渡節ライクなものになるだろうと思うのが人情。ところが、あにはからんや、これが「巨匠然」としたスケール感を感じさせるものになっていたのにはちょっとびっくり。ずいぶんと膨らみのある、いい音が鳴るんですよ。

どう表現したらいいのか困るところもあるけれど、この指揮者の棒が確信をもって振りぬかれるとき、そこにはムラヴィンスキーの棒から聴かれたような一種「これ以外はない」というような音像を感じる。これこそ「勝負曲」。その圧倒的存在感に、思わず体が前のめりになるのを感じるとき、ああ、やっぱりこれは一級のそれだ、と・・・ただ、その一方で、ひどく平凡でいらいらするようなところも少なくない。こういうところが、最初から最後まで一貫したパースペクティブで貫かれて、弛緩しないようになるには、それなりの年季を要するのだろうなあ。ただ、この指揮者がこれから大きくなっていくなら、彼の今を聴かせてもらったことは、聴衆としては得難い機会なのかもしれないけれど。

ただ、ショスタコが徹底的に嫌いなこすもすには、ただただ「勘弁してもらいたい」「耐えられない」演奏であったようではありました(^^;;)。まあ、これには決して反論はいたしませぬ(笑)。

一方、キラルの「オラワ」という曲は、これこそ「お国もの」を聴く楽しみの最たるもの。短い断片的な音細胞が、延々と繰り返されるうちに変容を遂げていく、ミニマルミュージックライクな、いわゆる「いちめんのなのはな」音楽なのだが、これが非常に面白くて・・・こすもすとも意見が一致したのだが、今日一番の掘り出し物、ですね。ヤブロンスキ君の棒も、冴えたものです。

で、こすもすと一番意見が分かれたのは、何を隠そうショパンのコンチェルト。これねえ・・・・

正直、ぐすたふ君、面喰いました。僕が思っている「ショパンのコンチェルト」とは、あまりにもかけなはれたもの。徹頭徹尾、ピアノはくぐもったような、それこそ東欧の曇った空のようなサウンドに終始し、オケもまたその微妙な陰影の移り変わりを邪魔しないように背景に徹する、という演奏。そこには、ほとんどと言っていいほど、華麗なピアニズムやコンチェルトに求められるはずの名技性の披歴といったものは見られず、まるで小さな部屋でひかれる「ピアノ独奏曲」を聴いているようである。

こすもすは「これこそが、ショパンのピアノの本質よ!!ショパンって、こういう音楽なのよ!!」とのたもうておられたが、僕は少々当惑を隠せない。

そのヤブロンスキ氏の「ショパン」は、アンコールにおけるマズルカでも一緒で・・・コンサートホールに背を向けたような、極めて「パーソナル」と言っていいような音・・・ショパンって、こんな音でひかれるべきものだったろうか?

僕にとってのショパンとは、ポリーニの弾くエチュードのそれ、そして中村紘子が弾くコンチェルトのそれ、だったのだが・・・・華麗な響き、ピアニズムの極致・・・・それは実は、間違ったイメージの産物なのだろうか??

ヤブロンスキ氏、今回の演奏に際しては、今はやりのナショナルエディションではなく、過去のいわゆるパデレフスキ版を用いているとのことだが、ここらあたり、それこそ自分の「レパートリー」に対する確固たる自負のようなものを感じる。スウェーデン生まれということだが、ヤブロンスキというラストネームが意味するように、おそらくはこの人、ポーランドの出自を持つのは間違いない。その彼が、ショパンを演奏するということ、おそらくはそのこと自体が、僕たちが想像することもできない重い意味と思いがそこにあるのかもしれない。

でも、こすもすの感激・感嘆の言葉を聴いているうちに思ったのは、結局、僕は所詮シンフォニー・コンサートゴーアー、ピアニストではない。故にショパンという作曲家、僕にとってはひときわ「異邦人」なのかもしれないですね。ショパン、僕の中ではいまひとつ明確な像を結んでいない、理解しているとは到底いえない、ということなのかなあ、と思い知った次第でありますね。

来年はショパン生誕200年、ここはひとつ、あまり守備範囲とはいえないピアノ音楽の巨匠、正面切って取り組むのもいいかもしれないなあ・・・・実は、うちにはショパンの全ピアノ作品を網羅した全集があるわけで・・・・ううううむ、不惑わくわくプラス6、来年の課題が見えてまいりましたねえ。
スポンサーサイト

PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する
 

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。