不惑わくわく日記

大阪でコンサートをあさっています。

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これぞ、プロのお仕事・・・・京響定期

参りました。

京都 京都コンサートホール
京響第534回定期演奏会
秋山和慶指揮 京都市交響楽団
ストラヴィンスキー:幻想曲「花火」作品4
カバレフスキー:交響曲第4番ハ短調作品54
ムソルグスキー(ラヴェル):組曲「展覧会の絵」

ほぼ望みうる最高の出来、じゃなかっただろうか?さすがは、プロ、と思いました。

ストラヴィンスキーは、それこそ「瞬きしている間に」目の前を通り過ぎていくような音楽で、これをもたもたしてたらどうしようもない。これをさあああああっと、難しさを感じさせずになってのけるのがプロの技で、それを聴きに来てるわけだけど、まあお見事でしたね。ペットと木管の巧さといったら。多分この曲、これから生で聴くことがあるかどうか。ストラヴィンスキーの若書きながら、才気弾ける佳曲、聴く機会を得たことに感謝。

対して、カバレフスキーの4番は、この間のスクリャービンの2番と同じく、超ド級のロシアB級交響曲。実は、この曲のCD、現在大植さんがNDRフィルを振ったCDしか入手不可能で、やっとそれが今朝HMVから届いたばかり。朝から早速聴いてみた感想は、「なんじゃこりゃ??」。1楽章・2楽章はやたらだらだら長いばかりの退屈な音楽、一方、3楽章・4楽章は、ダサダサ・クサクサの安っぽさ満載の代物。サウンドは、「ショスタコーヴィチとプロコフィエフを足して4で割ったような」とネットのどこかに書いてあったが、まさにその通り。言いかえるなら、タコとプロコを「ソヴィエトブリュワリー謹製のビール」に例えれば、まさに「発泡酒」か「第3のビール」みたいなもんです。

でもね、これがまた・・・こういうB級交響曲をやらせたら、京響の右に出るものはこの日本には存在しないのではないか、と思えるほどの好演。面白かったなあ。スクリャービンの時にも書いたけど、こういう曲、恥ずかしいとか下らないとか微塵も思っちゃいけないんですって。バットマンでも仮面ライダーでも、怪獣映画でもロマンポルノでも、役者ならどんな役でも、大真面目に演じきるのがプロってもんです。オケもまたしかり、仕事を選んじゃいけませんって。

でもそんな「交響組曲スーパーマリオブラザーズ」、一級品に聴かせるのは、ひとえに「京響ブラス」サウンドの魅力、だと思うなあ。このごろ、ぐすたふくん、このサウンド聴きたさにここに足を運んでるようなもんだもの。

その魅力は、後半の「展覧会の絵」でも満開で、この曲はトップを取った菊本君のペットを聴くだけで値打ち、ですな。プロムナードのどソロは当然として、「サミュエル」での弱音器ペットの妙技、「カタコンベ」での弱音から切々と「みらーそーらーそーーーーふぁーー(音高適当)」と泣かせるこぶし、「キエフ」で天から降り注ぐプロムナード旋律の黄金の輝き、などなど・・・・「これを聴きたさに私ここにきたんです、他に何も要りません」と言い切ってももいいくらい。

それだけでなく、この「展覧会の絵」、極めて周到にサウンドが整えられていて・・・まるで、周知のフルコースディナーを、はいつぎ、はいつぎ、と供されているかのような錯覚を覚えるほど。実に見事です。

でも・・・・って、思ってしまうぐすたふくんって、やっぱし嫌味なクラおたなのかしら?

今日の演奏、この「展覧会の絵」より、僕はカバレフスキーの方に軍配をあげてしまう。それはひとえに、カバレフスキーの曲が要求していることが文字通り過不足なく実現されていたからじゃないかな、と思うんですよね。こう書くとえらく格好がいいけれど、要するに、カバレフスキーの曲の中に音の「喜悦」や「愉悦」以外の何があるんだろう、とも言えると思うんです。

逆に言えば、「展覧会の絵」を聴きながら、贅沢極まりないぐすたふ君は、何を考えていたのか・・・・それは、「展覧会の絵」の演奏って、これでいいのかな?ということなんですよね。

それを説明しろ、といわれても答えに窮するのだけれど・・・・次のような事実を示すことで、なにがしかの説明になるだろうか?

今日の「展覧会の絵」の中で、僕が一番感銘を受けたのは、実は「ビードロ」。ところが、この「ビードロ」、今日の演奏の中では最も出来が悪かったんですよね。

秋山さん、この「ビードロ」かなりのスローテンポ。これがソロを取ったユーフォニアムの奏者にはつらかったようで、青息吐息でかなり危なかったんです。

ところが、この青息吐息の今にも倒れてしまいそうなユーフォニアムが、まるでこの「ビードロ」が暗喩している「処刑上に連れて行かれるユダヤ人」のイメージを僕の中に喚起し、それが何ともいえず印象的だったんですよ。

秋山さんが、それを意図していたかどうか・・・意図などしていなかったかもしれない、それはたまたま偶然の産物としてそこにあっただけかもしれない。でも、僕はそこに、音楽の向こうに、その時間そこにしかないものを見たんです。

つい数日前、傷だらけの大フィルのコープランドの向こうに、大植英次の「アメリカ的なるもの」へのオマージュを見通した僕は、今日の「展覧会の絵」がこの瞬間だけ見せた「音楽の彼岸」、それが壮麗なる「キエフ」の中に見えないことを感じた時、なにがしかの物足りなさを感じたのかもしれないですね。

でも僕は、いつか広上淳一がショスタコーヴィチをして京響の中にこの「彼岸」を現出させる時が来ることを確信しており・・・・その時まで、きっとこの場所に居続けるのだと思います。
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