不惑わくわく日記

大阪でコンサートをあさっています。

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機会を逃すべからず、という典型の演奏会・・・関フィル定期

京都百科さんに誘っていただいて、予定には入っていなかったんだけど、行ってきました。行って良かった。

大阪 ザ・シンフォニーホール
関西フィル第229回定期演奏会
飯守泰次郎指揮 関西フィルハーモニー管弦楽団
ピアノ独奏 ケマル・ゲキチ
テノール:竹田昌弘(ジークフリート)
バリトン:片桐直樹(ヴォータン:さすらい人)
テノール:二塚直紀(ミーメ)
モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番二短調
ワーグナー:楽劇「ジークフリート」第1幕

あまりのピアノの酷さに、モーツァルトについてはコメントしません(代役とはいえ、あまりに酷い。あんまりだ。合わす気あんのか、お前、から始まって、「安物」極まりないモーツァルト、デリカシーのないぞんざいなタッチ。勘弁してくれ)。実は、ちょっと遅刻して、1楽章は外のモニタ、2楽章から中に入ったのだが、入ったことを後悔しましたもん。まわれ右して、ラウンジに飲みに行けば良かった。

それに比して、後半の「ジークフリート」のなんと立派なこと!!

今日の演奏会、ほぼ完売に近い入りで、びっくりしたのだが、みんな良く知ってるんですねえ。やはり、飯守泰次郎の演奏会オペラ、聴きに来るだけの価値がある、ということなんでしょう。関西フィルもまた、充実の演奏で、感服しました。

特に、後半、さすらい人が退場してジークフリートが再登場してからの音楽の歩みの見事なこと!じわじわ、じわじわ、とジークフリート自身が変貌を遂げていく、それとシンクロして音楽が、じわじわ、じわじわと魔的な魅力を湛えていき、繰り返し繰り返し、螺旋を描くように高揚を続けて、ついにはラストのクライマックスのエネルギーの奔出につながって行く。このあたり、聴きながら、ぞく、ぞく、ぞくぞく、ときますもんねえ。これぞワーグナーの劇的演出の本質。こうなるとわかっていても、その魅力には抗しがたい。ここらへん、飯守泰次郎、心得たものであります。

後半だけでゆうに1時間半になろうかというプログラム、それでも飽きもせず聴き通せたのは、やはりそれだけ演奏に魅力があったからだ、と思います(しかし、長い曲だなあ。これでまだ、あと2幕もあるんですよねえ)。

ワーグナーの楽劇って正直言ってあんまり気を入れて聴いたことがないぐすたふくんですら、ここまで惹きつけられたわけですもん、ワグネリアンには、堪えられなかったんじゃないかしら?終演後のブラヴォーの凄かったこと!!

飯守さん、関西フィルと10年間の「オペラ」と「ブルックナー」の契約を結んだそうな。ううむ、やっぱり、飯守オペラ、これからも外さないようにしたほうがいいかもしれませぬな。
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コメント


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ぐすたふさま こんばんは

今夜もご一緒できまして、ありがたいことと存じます。

じつは私も、行きますのには、前日までいささか迷いがあったのですが、カペルマイスターのヴァークナー、実に実に、でありました。

ゲキチさんのモーツアルトは、モーツアルトを聞いたのであって、ゲキチさんをのみを聴いたのではなかったのでしたが、帰り道に申し上げました通り、化学調味料が利きすぎというか、頼りすぎというか。それに比してバックの骨のあること。

私の方もこれから書きます。(明日になるかも)

関フィルも応援しなきゃなりますまい。

古都百話(京都百科) | URL | 2011-06-01(Wed)00:22 [編集]


Re: タイトルなし

京都百科さん、早速のコメント(早い!!)、恐縮至極でございます。
>
> 今夜もご一緒できまして、ありがたいことと存じます。

いえいえ、私の方こそ。

> じつは私も、行きますのには、前日までいささか迷いがあったのですが、カペルマイスターのヴァークナー、実に実に、でありました。

誠に同感です。

> 関フィルも応援しなきゃなりますまい。

今日のような演奏を聴くと、見直すんですけどねえ・・・・二度と来るものか、と思った前回の演奏会(1年以上前!!)は、一体なんだったったんでありましょう。

やはり、私、飯守・関西フィルという組み合わせ、行くなら、これに的を絞ることにいたしまする。

ぐすたふ369 | URL | 2011-06-01(Wed)00:42 [編集]


この演奏会に、私はブログの筆者とは逆に、前プロだけのために行きましたが、ピアノは磨きぬかれた透明感のあるタッチで、まさに、モーツァルトの演奏と思うばかりのもの。もっと装飾などでは自由にやっても良いのでしょうが、明らかにオーケストラがついて行けていない様子でしたね。

自筆譜の書き方からすると、作曲者自身は音価のとり方には、自由度を持っていたようです。こうしたことは自筆譜と初版の出版譜を比較すれば分かることですが、ピアニストは、こうしたことを大変によく研究したものと思います。

この協奏曲はコンチェルト・グロッソなので、本来は、管楽器のソリストとピアニスト、ヴァイオリンとピアニストなどが、お互いに掛け合いで演奏するものです。

当夜のオーケストラは、ワーグナー風にゆったりと演奏していましたので、「ソリストとオーケストラが合わない」という感想を持たれたのかも知れませんが、協奏曲は、ソロにオケが付けるべきものですから、ついて行けないのは、ソリストの技量の問題ではないと考えることもできます。ソリストはオケの力量と反応を図って、ぎりぎりのところを狙っていたと思います。

代演でありましたけれど、演奏が終わってから、何度も拍手で呼び出され、予定にはなかったアンコールを弾いたことからも、当夜の聴衆は、演奏を支持していたものと思います。

当夜の関フィルにとっては、モーツァルトは、ワーグナーの付け足しだったのではないでしょうか。私は、なぜ、ドン・ジョヴァンニの木霊の聞こえる協奏曲とジークフリートを並べたのか、当夜のプログラムの意図を測りかねるものとなりました。多分、後プロを聴けば、また違った感想になっただろうと思います。

梶山 弘 | URL | 2011-06-10(Fri)10:21 [編集]


Re: タイトルなし

梶山さん、こんにちは。コメントありがとうございました。


> 当夜のオーケストラは、ワーグナー風にゆったりと演奏していましたので、「ソリストとオーケストラが合わない」という感想を持たれたのかも知れませんが、協奏曲は、ソロにオケが付けるべきものですから、ついて行けないのは、ソリストの技量の問題ではないと考えることもできます。

ご指摘の点はその通りで、オケ側はオケ側で響きを作っている、ソロは別に音楽をやっている、というような印象はぬぐえない、と感じました。ただまあ、もうちょっとソリスト、合わせてあげても良かったんじゃないかと、私としては思ってしまいまする。

> 代演でありましたけれど、演奏が終わってから、何度も拍手で呼び出され、予定にはなかったアンコールを弾いたことからも、当夜の聴衆は、演奏を支持していたものと思います。

アンコールを弾いてくれた、ということは、それなりに反応に対して気を良くされたということでしょうね。急な代役ですから、そのことには感謝すべきですよね。

> 当夜の関フィルにとっては、モーツァルトは、ワーグナーの付け足しだったのではないでしょうか。私は、なぜ、ドン・ジョヴァンニの木霊の聞こえる協奏曲とジークフリートを並べたのか、当夜のプログラムの意図を測りかねるものとなりました。多分、後プロを聴けば、また違った感想になっただろうと思います。

それは、是非とも後プロを聴いていただきたかった。おそらくは想像するに、20番のコンチェルトはデームス氏の希望で、飯守泰次郎の節目のコンサート、マエストロ同士の18番を並べるという趣向のプログラムであったと思います。作品の性格は度外視、だったんじゃないでしょうか。京都百科さんとも当日話していたのですが、予定どうりの演奏が並べば、イベントとしての性格が際立って、万々歳というところだったと思います。関西フィルとしては、そこらへん、残念だったでしょうね。

ぐすたふ369 | URL | 2011-06-11(Sat)11:50 [編集]


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