不惑わくわく日記

大阪でコンサートをあさっています。

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僕がヒンデミットが好きな理由

ぐすたふくん、中学2年生の時にマーラーの「復活」にやられて以来、当然のようにマーレリアンで、マーラーが好きなのは本当です(いまさら、ですよね)。

でも、当時(1970年代後半)ではマイナーな存在だったマーラーも、いまや超メジャー作曲家。いまさら、マーレリアンだなんて言っても、まあそらそうでしょう、それで?って感じになっちゃいました。

マーラーがそうなっちゃったもんで・・・・村上春樹のプーランクが好きだっていう文章を読んで、そういう極めてパーソナルな、他の人があまり知らない、宝物のような作曲家がいる、そのことがうらやましく思えちゃったんですよ。そう言える作曲家が、改めて僕にもあったらいいなあ、って思ってたんですけど・・・・ようやく、このごろ、それって僕にとってはヒンデミットなんじゃないかなあ、って思うようになりました。

実はヒンデミットはかなり多作の作曲家で、そうでありながら録音が少なく、そういう意味では、僕がどの程度ヒンデミットを聴いているか、と言われると、ううむというところ無きにしもあらずだけれど・・・でもまあ、ほとんどの管弦楽作品と、重要な室内楽作品・ヴィオラ作品・ピアノ曲には耳を通しているし、実際大学時代に弦楽四重奏のための小品も弾いているので、まあ平均的なクラシックリスナーよりは聴いている方といっても良いんじゃないかなあ。

この人の魅力は、その独特の「味」ですね。苦み、と表現するのがぴったりな、それこそ「大人の味」(「画家マチス」の独特の和声なんかが、良い例)。モダンジャズに通じるものもあるような気がするなあ(カンマー・ムジークなんて、ほとんどコンボ・ジャズみたい)。そして、バッハに比肩するほどの、対位法の見事な構築性。それが、なんとも幾何学的な美しさを湛えるんですよ。「ピアノ・ソナタ」なんて、音を間違えたバッハと言われたこともあったらしいが、そこがまたいいんですって。

弾いたときも、なんともいえない「弾く愉しみ」が改めてそこにあるのを感じて、驚愕した思い出がある。これが、ヒンデミットが演奏者に好かれる(グールドがヒンデミットを偏愛していたのは有名)所以なんでしょうねえ。

でも、他の人に聴いてほしいとは思いません。だって・・・・パーソナルなものにしておきたいんだもん(笑)。

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感銘深い演奏・・・聖トーマス教会合唱団&ゲヴァントハウス管弦楽団演奏会

生まれて初めての、マタイの演奏会。

大阪 ザ・シンフォニーホール
聖トーマス教会合唱団創立800周年記念公演
ゲオルグ・クリストフ・ピラー指揮
聖トーマス教会合唱団&ゲヴァントハウス管弦楽団
ウーテ・ゼルビッヒ(ソプラノ) シュテファン・カーレ(アルト)
マルティン・ペッツォルト(テノール:福音史家&ソロ)
マティアス・ヴァイヒェルト(バス)
ゴットホルト・シュヴァルツ(バス)
J・S・バッハ:マタイ受難曲BWV244(全曲)

このごろアクシデントには慣れっこになってしまって、半ばあきらめ気味なのだけれど、今日も演奏者降板のお知らせから始まって、いきなりテンションダウン。テノールソロをやるはずだった、クリストフ・ゲンツ氏が体調不良で参加見合わせとのこと。「演奏参加見合わせ」ということは、来日はしておられる、ということなのかな、と思い直し、それなら原発がらみではなかろうとちょっと気持ちを取り直したのだが・・・・毎回こんな気持ちにさせられて、現実を突きつけられて、いささかげんなり。でも、聖トーマス合唱団の少年たちがちゃんと来てくれたという事実には変わりはないし、ゲンツ氏の降板が仮に原発のせいであったとしても、他のソリストはちゃんと来日してくれている、と言う事実にも変わりはない。そのことには、素直に感謝しなければならない、と思います。まだ、日本が見捨てられたわけではないと。

で、それでなくても全編歌いっぱなしで大変な福音史家のペッツォルト氏、さらにアリアまで歌わなければならなくて、これがやはり大変。明らかに、アリアの所は練習不足がわかってしまうのだけれど、これはもう仕方が無いですよねえ。ただただ、ねぎらいの拍手をお送りしたいです。

ソリストでは、やはりアルトを担当したカーレ氏が飛びぬけて良かった(男性!こういうのを、カウンターテナー、って言うんだろうか?初演時は、ソプラノも男性が担当したんだろうなあ)。かの有名な、第2部のアリア、「憐れみたまえ、わが神よ、この涙のゆえに」のなんとも透明で、遠い遠いところまで突き抜けていくような哀愁の、切々と胸を打つことといったらないです。また、この人、合唱にも参加していて、合唱団とソロ席の間を何回も往復していたのにも驚きました。ソリストの中では最も若く、聖トーマス合唱団出身とのことで、それこそ、指揮者でトーマス・カントールでもあるビラー氏とともに、きっと先頭にたって引っ張ってこられたんでしょうねえ。

このカーレ氏のアリアに、バスのアリアを挟んで拮抗する、もう一つの素晴らしいアリア、「愛ゆえに」の、それこそ涙なくして聴けない、切々たるソプラノも良かった。第二部は、この二つのアリアが絶品ですね。

そして、第2部と言えば、ここで3回繰り返されるパウル・ゲルハルトに起源をもつ受難コラールの美しさ。この3回それぞれを、激情や怒り、やりきれなさや諦念、そして浄化された祈り、という風に、見事に表現しわける、感動的な合唱。この劇的表現、素晴らしい、の一言です。バッハがこれほどまでにドラマティックだということを、実感として感じられた、忘れがたい時間だったです。

そして、徹底的に絶望的なドラマを突き抜けた先に、いつの間にか仄かな救いの灯りがともり、それが「わたしのイエスよ、おやすみなさい」と繰り返されるうちゆっくりと音楽全体に広がって、最後の「我ら涙してひざまづき」の合唱に於いて、怒りも苦痛も悲嘆も哀しみも超えた、極めてニュートラルな地平に到達する時間を感じた時、ああ、これがマタイというものなのか、となんとなくこの曲を初めて理解できたような気になりました。これが、バッハ体験、というものなのかなあ。

マタイという曲、CDで聴いているといつもピンと来なくて、途中で寝てばかりなのだけれど、初めてこれはやはり評判どうりの凄い曲なのかもしれない、と思ったのは、NHK・BSでやっていたライブ録画(どこの演奏だったかなあ、ペーター・シュライヤーがエヴァンげリストをやっていたはず)を見たとき。この時は、ただただ、そのどこまでも沈潜していく悲劇性に激しく心揺さぶられたのだが、今日はむしろ希望や救いが感じられて、そこが感銘深かった、と思います。

やはりこの曲はライブで聴くものなんやなあ、と思いました。こうやって、マタイ体験を積み重ねていくことが大切なんかなあ、と。また次回は、違うものが感じられるかもしれないなあ。

今日の経験を反芻しながら、またCDを聴いてみよう、と思います。

はるばるこんな日本にまで感動を持ってきてくれた聖トーマス合唱団の若者たち、本当に有難う。最大限の賛辞を、ぐすたふくんは送りたいです。

陳腐で恥ずかしいけど・・・・心から、Danke Schoen, und Auf Wieder sehen !!

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ろんろんが高校を卒業する

ちょうど、大植・大フィルの定期演奏会に重なってしまったので、記事にするのが遅くなったけれど、ろんろんが先週の金曜日に高校を卒業しました。

このブログを始めた時、彼はまだ小学生で、星野監督の阪神タイガースを見に行ったり、ろんろんの絵のページがあったり、ろんろんのブログがあったりしたんだよね。

もう一人で歩いて行くんだなあ。

このブログも、「我が家の風景」も、

彼の卒業とともに

そして大植さんの監督からの卒業とともに

長原君のコンマスからの、大阪からの卒業とともに

終わろうと思います。

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ストラヴィンスキーのヴァイオリン協がこんな曲だったとは・・・京響定期

どれをとっても素晴らしい演奏だったけれど、とりわけヴァイオリンが印象的。

京都 京都コンサートホール
京響第554回定期演奏会
井上道義指揮 京都市交響楽団
ヴァイオリン独奏 郷古廉
ストラヴィンスキー:ハ調の交響曲
ストラヴィンスキー:ヴァイオリン協奏曲二調
ストラヴィンスキー:3楽章の交響曲

オール・ストラヴィンスキーという挑戦的なプログラム。プレ・トークで道義さん、「今はこんなプログラムでもお客さんが一杯になるようになったので、こんな曲やらしてもらってます。有難うございます」とのたまっておられましたが(そんなこと仰らずとも、とも思いましたが)、いえいえ、「京響で」「こんなプログラムだからこそ」わざわざやってくる聴衆が居るんですよ、僕のように。

少なくともぐすたふくんにとっては、今シーズンで最も期待に胸膨らませて臨んだ演奏会。そしてその期待に違わぬ演奏。さすがは、今の京響、です。

最初の「ハ調の交響曲」からして、京響サウンド全開。鋭角的でクリアなサウンドを聴かせ、この「20世紀風バロック組曲」、こんなに面白い曲だったっけ、と思いながら聴いてました。ハ調という調性から演繹される最大限の明るさ、それそのものを指向したエンターテイメント作品だったんだ、ということを初めて感じられたように思いまする。正直、いつもCDで聴いてる分には退屈で面白くなくって、今日も実は3曲の中では最も期待してなかったんだけれどなあ。やはり、演奏がそれだけ良かった、ってことなんでしょう。

そして、メインの「3楽章の交響曲」はもう、申し分のないゴージャスなもの。これぞストラヴィンスキーというような変拍子のリズム細胞で構成されたこの難曲、それを一切の無駄な演出を排し、その幾何学的美しさを一直線に現出させた見事なまでにカッコイイ指揮ぶり、さすがは井上道義、です。で、実際に鳴る音がそこでもたもたしてたらどうしようもないわけで、それをきっちり決めた京響もエライ。この曲、ぐすたふくん大好きで大好きで・・・・ライブでこの曲を聴ける愉悦、その幸せ、ただただ満足でした。最後の一音を振り終わった瞬間、道義さん客席をどや顔で振り返ったけど、まあそれに値する出来。まさに、降参、です。

で、ここまでで一旦文章を切ります。京響のこと、道義さんのこと、そのことは充分に書きたかったから、ここまで書きました。でも、今日の演奏会の一番は、僕にとってはソリストなんです。その気持ちを前面に出してしまうと、せっかくの二つのシンフォニーのことがおざなりになってしまうような気がして・・・・それでは、あんまりだと思ったんですよね。だから、まずひとまず文章を纏めよう、と思ったんです。

改めて、ヴァイオリン協奏曲のことを書きます。

申し訳ないけれど、今日の二曲目のコンチェルトは、京響は添え物、だったです。確かに、軽妙・洒脱な色どりを十二分に添えていたという点で、京響の演奏にも魅力は充分以上にあったとは思います。ストラヴィンスキーのこの曲、本当はそういう曲、だと思うんです。言っちゃ悪いが、それほどの深みのない、演奏効果を指向した、娯楽的作品。ヴァイオリン協奏曲っていうのは、そういうもんでっしゃろ?、これでどないだす? てな態度で書かれた作品。僕はそう思っていたから、この曲はあまり好きじゃなかった。前に諏訪内さんのソロで聴いたときも、熱演する諏訪内さんと、実際に出てくる音や曲の有り様とのギャップに違和感ばかりが先に立ち、決して愉しめなかったし、これといって感じるところもなかった。なんでこんな曲やるんだろう、とも思ったことを思い出す(前の記事:http://www.geocities.jp/ronronrinrin/2004concertreview.html#040528;奇しくも、前回の大植さんの「春の祭典」の次の大フィル定期がこの曲!!)

ところが・・・思わず聴いている途中で、ぐすたふくん、ソリストのプロフィールを確かめるために、プログラムを開き直しました。そうせずにはいられなかった・・・・1993年12月生まれ・・・なんとまだ18歳になったばかり!!

これから僕が書くことは、この若いソリストにとってはお笑い草かもしれない。彼がもし、この文章を読んだなら、その眉目秀麗な顔に憐れみの表情を浮かべ、何も知らない馬鹿が馬鹿なことを書いている、と吐き捨てるかもしれない。

でも僕は、「厳粛」とでもいう他のない、その徹底的に厳しい演奏に・・・まるで、バッハの無伴奏を弾いているかのようなストラヴィンスキーのソロパートに・・・どうしようもなく引き込まれた。彼の、内へ内へと凝縮していくエナジーの紅く鈍い炎を凝視するうち、僕の耳の前景にはヴァイオリンの音が巨大な塊となって屹立し、オケの音は周辺やその背後に後退していく・・・・この曲って、こんな曲だったんだろうか?僕はとんでもない間違いをしていたのだろうか?僕は、この曲の何も聴けてはいなかったのか?

ただ確かなことは、このヴァイオリニストが、生まれついてのソリストだ、ということだ。それもただのソリストではない。往年のシゲティのような、孤高の高みにまで昇ろうとする、峻烈な激しさを秘めた魂。ここまでの若いヴァイオリニストが、しかも男性のヴァイオリニストが、日本に居たとは。

演奏が終わって、道義さんが言う「去年の3月、彼は宮城県多賀城に住んでまして・・・・電話をかけても繋がらない、繋がらない・・・・そんで、彼は12時間かけて金沢までやってきて・・・そして最初にしたことは・・・・1週間ぶりの風呂に入った!!・・・・生きてて良かったです!!」

彼は神に選ばれた子、なのでしょう。

黒川侑21歳、郷古廉18歳・・・・この二人、決して忘れますまい。

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ありがとう 大植英次・・・・大フィル定期

今日は、演奏も昨日に増して素晴らしかったけれど、それよりも、なによりも・・・・

大阪 ザ・シンフォニーホール
大フィル第455回定期演奏会(二日目)
大植英次指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」
ストラヴィンスキー:バレエ音楽「春の祭典」

昨日の「ハルサイ」より、さらに上を行くとは想像していなかった。何をおいても「いけにえの踊り」に止めを刺す。妖しい光彩を放つまでの、ぬめりに似た触感。これを、エロス、と呼ぶに躊躇はない。クライマックス前のゲネラル・パウゼ、そこでの大植さんの壮絶なる唸り声と、振り下ろされたタクトに跳ねあげられるように飛び上がる彼の体躯。それが何よりも、この演奏に籠められた尋常ならざるエナジーの証。

この部分でのストリングセクション、フロントローのテンションの高さも尋常ならざるもの。長原幸太・佐久間聡のヴァイオリン・ツートップの渾身のダウンボウ、それが生み出すサウンドの何と豊かな質感と量感であろうか。ここまでのストリングサウンドの上に、昨日よりもさらにパワーアップしたブラスが咆哮する時、ああこれこそ「ハルサイ」をライブで聴くことの至福・・・心からそう思う。

昨日は背景にしか過ぎなかったかの印象であった「田園」は、今日は充分に「ハルサイ」と対峙しうる一幅の絵。今日の演奏ならば、こう並べたとき、それこそ「聖と俗」「天国と地獄」というような古典的連祭壇画を連想するに困難はない。「田園」が実は、ああみえて「舞踊組曲」であることに気付くとき、「田園」と「ハルサイ」を並べることの妥当性、その美的俯瞰に策士大植の意図を汲むこと、可、とするにやぶさかではない。ただただ、昨日の「田園」、乗りが悪く、リズムの生命感に欠けていた、そのことがぐすたふ君をして、昨日の方が面白くないと思わしめた原因のように思う(たとえ、今日は4楽章から5楽章にかけてのブリッジ部分で、オーボエが落ちるという大事故があったにしても)。

いつもなら、この先に東京公演があって、そこにピークが持って行かれるのだろう、そう思ってしまうのだが、今日はそう思わない。今日がピークかもしれない。今日が、最高のパフォーマンスかもしれない。なぜなら・・・

終演後の温かい拍手、いつまでもいつまでも続く拍手・・・・大植さんが引っ込んでも、そして長原君が礼をしても、舞台上からみんな去ってもやまない拍手に、再び現れた大植さん。そのもとに、みんなが駆け寄る。そしてそれからの、長い長いスタンディングオベーション。大植さんは舞台から握手をし、客席に飛び降りて抱き合い、そして指揮台に口づけをする。ブラボーの掛け声、有難うの掛け声・・・そう、今日は大植さんの監督としての最後の定期演奏会だもの。

ありがとう、ありがとう。あなたが大阪にやってきてくれてから9年間、僕はずっとあなたについてきた。僕はあなたについてきて・・・・あなたと大フィルについて行こうと決めて、本当に良かった。こんなこと、もう多分、僕の一生の中、二度とないだろう。こんなに豊かな音楽的体験ができたこと、僕の一生の宝だと思います。

さようなら、偉大なる大阪のマエストロ、大フィル音楽監督、大植英次。

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田園を背景にハルサイが屹立する・・・・大フィル定期

「ハルサイ」のための演奏会、ですね、明らかに。

大阪 ザ・シンフォニーホール
大フィル第455回定期演奏会
大植英次指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」
ストラヴィンスキー:バレエ音楽「春の祭典」

明日も行くので簡単に・・・・

正直に言ってしまえば、今回のプログラムは「田園」は「ハルサイ」が後半に無かったなら、たんなる退屈な演奏以外の何物でもなかったんじゃないか、と思います。

いろいろ細かい表現や仕掛けを丹念に織り込んだ「田園」だったと思うけれど、いかんせん音楽が開いて行かないもどかしさに終始していて、せっかくの6楽章も今一つ法悦感に乏しく、聴いていてうーんと思ってしまうような演奏。

でも、大植さんというひとは、同じ曲を、違う文脈、違う風景に変えてしまう人。これは、何かあるな、と思っていたら、後半の「ハルサイ」を聴いて、なるほどと。

極端な話、「田園」は「ハルサイ」の合わせ鏡。もしくは、背景と前景。モナリザと、その背景。そういうことだったんじゃなかろうか。

「ハルサイ」は掛け値なし。変拍子のなかでフレージングを歌わせようとする大植イズムが生み出す、緊張感あふれる熱演。無機的、幾何学的な美を追求するよりも、むしろ、そこに情念のような濃厚な気を漂わせる、不思議な魅力に満ちていたように思います。

大フィルも、プロの仕事らしい、良く練れた演奏で応えていたが、第1部の「二つの対立する種族の遊戯」で大きな事故があったのは残念でした。

さて、明日は?

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グールドのブラームス間奏曲集

このアルバムのことはずっと以前から知っていて、坂本龍一がどうしても一枚だけ選べと言われれば、迷わずにこの1枚を選ぶと言っていたのを聞いて以来、激しく気にはなっていました。でも、なんだかんだで今日まで聴かずに済ましていたもの。

で、この間の冬の演奏会で念願のラヴェルのソナチネを弾いてくれたこすもすが(感謝感激、本当に弾いてくれるとは!!日々、この曲が自宅で弾かれることのなんと幸せなことだったろう!!)、次の夏の演奏会で僕にとって究極の音楽の一つである「間奏曲 作品118の2」を弾くつもりだと言ってくれた時の雷に打たれたような感慨は、到底言葉では言い尽くせない。

で、買いましたよ、このアルバム。究極の曲の究極の演奏。これを聴かずして、何を語ることができるだろうか?

で、聴いてます。聴いてますけど・・・結局、何も語れないような気がする。言葉にしてしまえば、それは嘘になりそうで。

ほとんど崩れ落ちる寸前までの演奏、でもそれがぎりぎりのところで品位をもって踏みとどまっている・・・その様、その有り様、それ自体の圧倒的な存在感・・・それは、それ自体が、ブラームスと言う人、グールドと言う人、もっと言ってしまえば「人間」という存在そのものの根源に根ざしているようで、真に畏敬の念と深い共感を聴く人のなかに呼び起こすように思う。

やはりこの演奏は、深夜、一人きりで聴くに相応しい、ですね。何も言わずに。


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