不惑わくわく日記

大阪でコンサートをあさっています。

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大植さんのマーラーって・・・大フィル、神戸特別講演

ちょっと困惑気味。

西宮 兵庫県立芸術文化センター
大阪国際フェスティバル特別講演
大植英次指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
ソプラノ ハイディ・エリザベス・マイヤー
モーツァルト;ドン・ジョバンニ序曲
シェーンベルク:淨夜
マーラー:交響曲第4番ト長調

この中で何が良かったか、と言われれば、迷わず二曲目の淨夜をえらぶ。濃密な夜の匂い。官能的、という言葉がしっくりくる、むせ返るような質感。カラヤンのそれを彷彿とさせるような、世紀末的身に纏わりつくような生理的感触。見事、の一言。

モーツァルトは、はあ、難しいんですね、の一言。

で、マーラーです。

初めてスコアを拡げてマーラーを指揮する大植さんを見ました。実は、終演後、東京からわざわざ駆けつけてこられたじゃく様ご一行と夕食をともにしたのだが、共通したのは、大植さん、この4番はレパートリーでは無かったのではなかろうか、若い時には振ってなかったのではないか、という意見。これは、あながち間違いではないかもしれませぬ。

というのも・・・どうにも、大植さんの棒からは、この曲のキャラクターが見えてこない。謎かけのようなこの曲の、難しさばかりが先に立つ。

やっぱり、この曲難しいんだなあ、と思いました、心から。

必死で大植さんは、リヒャルト・シュトラウスで見せたようなアゴーギグをここでもみせるのだけれど、僕から言わせれば、そんなものはこの曲には必要がないんじゃないかしら、といったものばかり、なんですよね。邪魔になりこそすれ、理解の助けには決してならない。

実は、この4番というシンフォニー、マーラーの交響曲の中では微妙な存在であることは、ちょっとマーレリアンなひとなら、きっとうなずいてもらえると思うんですよね。だから・・・・大植さん、今日の演奏、自分でも失敗だったんじゃないか、って思ってるんじゃありませんか?4番、という存在を、今一度考えなおそう、と思ってませんか?もし、あなたがバーンスタインの使徒ならば、きっと今晩、眠りもせずに今一度、勉強しなおしているだろうな、と僕は思っています。

だから・・・時間をおいて、もう一度4番を振ってください。

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小松左京

一つの時代が終わる。

この人の、日本における存在、というものはこれから、時間をかけて検証されるべきであろう。

中学から高校にかけて、心酔した作家に

こころからの敬意をこめて、

敬礼したいと思う。

そして、

今この時にこの人がこの世を去ることを

日本人なら、

格別の思いで受け止めるべきだ、と思う。

左京さん

僕は、あなたが日本に託した思いを

決して忘れない。

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過不足のない十二分に立派なマラ3・・・京響定期

タイトルどうり。

京都 京都コンサートホール
京響第548回定期演奏会
大野和士指揮 京都市交響楽団
京響市民合唱団(女声)・京都市少年合唱団
メゾソプラノ:手嶋眞佐子
マーラー:交響曲第3番二短調

はっきり言って、何も文句はありません。これだけのサウンドを聴かせた京響にただただ感嘆。

ペットの二人に最大級の拍手を。最後の弱音のコラールをこれほどまでに綺麗に響かせた、トップのナエス君と、ほぼ完璧と言っていいポストホルンを舞台裏で吹ききった早坂さんに。

そして、なんら危なげのない安定感抜群のホルン部隊にも最大限の賛辞を贈りたい。ここまで聴かせてくれるのは、関西ではあなた方だけだろう。

終演後真っ先に大野さんが立たせたのは、実はボーンのトップだったけれど、僕はやはりペットとホルンに軍配を上げてしまうなあ・・・ちゃんと、ボーン・チューバを聴いていたのかと言われそうだけれど。

澄んだ良く通るサウンドで今日も答えたストリングセクションの響きにも、拍手を。コンセルトヘボウのマーラーに比してもいいかもしれない、とすら思いました。今日は。

欲を言うなら、渡邊さんのヴァイオリンソロがもうちょっとしっかりしてくれてたらなあ、というところぐらいかしら?なんで今日は泉原くんじゃなかったんだろう?

ただただ、演奏としては十二分なもの、と思います。

が・・・・とくるのが、ぐすたふくんですよね。

大野さん、という人が、僕には良くわからない、です。

今日の印象で一番に思ったのは、ああ、この人はやはり、オペラの人なんだ、ということ。そこかしこに、「歌」を求める。そこに歌詞がなかったとしても、彼は歌を指揮している。そのことはよくわかる。それが、なめらかなフレージングを生み、起伏のある音楽のドラマを生み、「歌のないオペラ」たるマーラーの交響曲の魅力をそこに
現出させる。

ただ・・・どうなんだろう、どうしてもっと行かないんだろう、と思ってしまうんですよ、この人の指揮の中に。

それは、前に大フィルでショスタコの15番を指揮したときにも感じたのだが・・・・時に見せる、ゾクッとするほどの鬼気迫るオーラ、それがあるところで止まってしまう。止めてしまう、というべきなんだろうか。

今日でも、6楽章、存外にサクサクとした早いテンポで始まったこの音楽、このままで行くのかと思いきや、途中でえええええっと思わせるほどの沈潜と高揚の両極端に振れる。これは、とおもって固唾をのんでいると、それが、ラストに至ると、通り一遍の表現に戻ってきてしまう。

これはどういうことなんだろう、とぐすたふくん、思ってしまうんですよね。だから、この人を僕は今一つつかみきれない、と思ってしまうんですよ。

何か、彼の中に二つのキャラが存在していて、それが出たり入ったりしている、そんな気がするんですよね。それが、時として、僕の中に欲求不満の気持ちを起こさせるような、そんな気がするんですよ。そんなこと思うのは、僕だけなんでしょうかね?

だから、もしかしたらマーラー、もう一日あったなら、また違うものがそこに見られたんじゃないかなあ、とも思いました。

その意味で、京響も複数日公演があったらいいのに、と切に今日は思いました。



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今年のシリーズを通しで買った人は、大当たりと思います・・・・大フィル・チャイコフスキーシリーズ

ベートーヴェン・チクルスよりも、ブラームスチクルスよりも、今年のチャイコフスキー・シリーズが、実は最高のシリーズものになるんじゃないやろか?

大阪 ザ・シンフォニーホール
大フィル・チャイコフスキーセレクションVol.1
大植英次指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
ピアノ独奏 マキシム・ベッケルマン
チャイコフスキー:(??????)
チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番変ロ短調作品23
チャイコフスキー:交響曲第4番ヘ短調作品36

ミステリー・ピースというオープニング、ぐすたふくんにかかれば、一発やろ、と実はタカをくくっていたのだが・・・・わかりません!!!!!!なんや、この曲?まるで、ショスタコの祝典序曲のような曲だが・・・「曲名がわかれば、大フィルまでご連絡ください。三曲ともあたれば、景品をゲット!!」だそうだが、いきなり最初からギブアップ。ここで、ぐすたふくんは潔く白旗を上げまする。無駄な悪あがきはいたしませぬ(笑)。

さてさて、本題。ピアノ協奏曲、冒頭のホルンを聴いて、ああ、この曲実は、長いことライブで聴いてなかったなああ、と思ったのが一番。やっぱり、いい曲ですねえ、生で聴くとホントに。大フィルの豪快な音が、またこの曲に良く合う。

実は、ぐすたふくん、この若いソリストのピアニズムの雑さ加減に、1楽章では半分切れてて、「ガンガンピアノを叩けば、チャイコフスキーになると思っとるんか、よお、兄ちゃん!!」と思っていたのだが、2楽章、3楽章は好印象。加えて、終演後、多分、大植さんに言われたんでしょう、「シンフォニーホールは、大植の家のようなものだから」と正面、右サイド、左サイド、オルガン横と順番に向き直ってお辞儀をするその様が、なんとも可愛い(^^)。プログラムをみれば、まだ22歳。ハノーファーで大植さんにこの前まで教わってたらしい。そんなことを思えば、今のこの日本に来てくれて、一所懸命演奏してくれた、そのことを素直に感謝すべきであって、余計なことは言いますまい、と思ったのでありました。

そして、チャイ4、これが凄い熱演。終演後のブラボー、先週のばらの騎士ほどではないにしても、なかなかのものでありました。

大植さんのチャイ4は、一度聴いているのだけれど(2006年の京都公演。最初の京都公演の演目でしたね。定期ではやってないみたいですね)、その時はそれほどの印象を受けなかった記憶がある。今探して読み直してみると、「大植さんのチャイ4は、さっきも書いたとおり、実は案外、入念に計算し整えられた演奏で、「秀演」とは評せこそすれ、決して「爆演」では無かったと思う」などと書いておりまする。

ところがどっこい、はっきり言って、今日のチャイ4は、「爆演」「怪演」ですな。まあ、濃~~~い演奏。やっぱし、なにわのストコフスキーだわ。

だって、まあ、テンポが揺れること揺れること・・・・その最たるものは、両端楽章。4楽章なんぞ、第1主題と第2主題のテンポが1.5倍くらい違う。

また、1楽章の第1主題が再現する直前の展開部の怒涛のクライマックスの高揚など、一気呵成に突っ走るというより、まるでターミネーターが一段、また一段と迫りくるような波状攻撃。どこまでこの音楽は行くのだろう、と真剣思いました。

当然のことながら、4楽章のコーダの突進など爽快そのもの。それいけ、やれいけ!!!スカッとしましたねええええ。

大フィルの前のめり度も尋常じゃない。凄いテンションです。血管ぶち切れ寸前、ですな。

このシリーズ、昨年のブラームスチクルスよりも、さらにパワーアップしているのは明らかで・・・・今日の客席、満席ではないにしろ9割以上の入り。これはもしかすると、この演奏を受けて次からは補助席か?

今回のシリーズを最初から購入していた人(ぐすたふくんを含め(笑))、正解でしたな。で、悲愴だけ狙ってた人、焦った方がよろしいですぜ、奥さん、ふふふふ。

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万雷の拍手に我らがマエストロが屹立する・・・大フィル定期二日目

今日の終演後の拍手の凄かったこと。

大阪 ザ・シンフォニーホール
大フィル第450回定期演奏会(二日目)
大植英次指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
ピアノ独奏:デニス・プロシャイエフ
ヴァイオリン独奏:長原幸太
チェロ独奏:趙静
オットー・クレンペラー:メリーワルツ(日本初演)
ベートーヴェン:三重協奏曲
ラヴェル:ピアノ協奏曲ト長調
R・シュトラウス:ばらの騎士組曲

「ばらの騎士」は昨日よりもさらに白熱。昨日はやりすぎてやや単調に傾いた感のあった、最後の愛の三重唱はさらにその表現を拡げて、まさに感動的な大団円を演出して見事。満員に埋め尽くされた客席からの万雷の拍手、地響きのようなブラヴォー・・・・いやあ、凄かったですねえええ。ここまでのリアクション、久しぶりかもしれない。これぞ演奏会、とじーんときました。

エイジ・オブ・エイジ、ここに極まれり。これは、これから今シーズン、さらにヒートアップしそうでありまする。

三重協奏曲もすごかった。実は、昨日の演奏、長原君の調子が今一つだったのだが、流石は長原幸太、今日はしっかり修正してきました。のみならず、それに煽られてか、他の二人のテンションもヒートアップ。そんなもんで、今日は「アンサンブルの愉悦」を通り越して、まあ丁々発止の凄い熱演。あまりの熱の入りようから、アンサンブルが危なくなる場面もあるのだけれど、これがまたスリリングな聴きものになるあたり、まさにライブの醍醐味、といった演奏。この曲がこんなにいい曲だと思わされたのには、昨日に引き続き今日もまた、目から鱗、ですな。

それに比較すると、今日のラヴェルは、大フィルの非ヴィルトゥオーゾオケの面目躍如たる、違う意味での「スリリングな」演奏。2楽章は昨日と同じく、暖かい肌触りと味のある演奏で、幸せな気持ちになれたのだが、1楽章と3楽章は・・・・大植さん、大変だったと思います、同情します。昨日の方が良かったのは、ピアニストが昨日は抑え気味だったからなのかもしれないなあ、と思って聴いてました(なんちゅう言い方や、という話もありますが(^^))。

クレンペラーのワルツは、今日の方が良かった。だいぶノリが良くなっていて・・・大フィル、こういう曲を粋にさあああってやるのが、やっぱり苦手なんですねえ。

でも、終わりよければすべてよし。繰り返しになるけれど「これぞ、大阪での、大フィルの演奏会」。今日のこと、僕はきっと忘れないでしょう。

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これぞ、「ディベルスマン」・・・・・大フィル定期

キーワードは、タイトルにも書いた通り、「愉悦」でしょう。

大阪 ザ・シンフォニーホール
大フィル第450回定期演奏会
大植英次指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
ピアノ独奏:デニス・プロシャイエフ
ヴァイオリン独奏:長原幸太
チェロ独奏:趙静
オットー・クレンペラー:メリーワルツ(日本初演)
ベートーヴェン:三重協奏曲
ラヴェル:ピアノ協奏曲ト長調
R・シュトラウス:ばらの騎士組曲

一見とりとめのないように見えるプログラム、だけれど終始一貫して、演奏者も演奏を楽しみ、そして観客も楽しませようという姿勢に貫かれていて、それがこの演奏会を完結したものにしている。そして、最初と最後がワルツに挟まれ、休憩をはさんで2曲の協奏曲、という点でもシンメトリカルな見事な構成。

さすが、策士大植、ですな。渋いプログラムビルディングです。

実は明日も行く予定、例によって(やっとこういうことをやろうという精神状態になりました)正面バルコニー席で大植さんの指揮ぶりをじっくり見させてもらったのだけれど・・・指揮ぶり、という点からすると、やはりばらの騎士にとどめをさす。大植節全開のリヒャルト・シュトラウスで、やはりこの人は、マーラー振りというより、シュトラウス振りなんだなあ、と改めて思いました。

とにかく、大植アゴーギグ全開。よくまあ、大フィルついて行ったもんだ。濃い演奏の極致で、ただ最初のうちはいいのだが、だんだん飽きてくるんですよね。最後のワルツに至る前に食傷気味になってしまって・・・ここら辺、明日どうなっているのか。おそらく、足したり引いたりしてくると思うので、気をつけて聴いてこようと思います。

実は、真ん中に挟まれた協奏曲がそれなりに秀逸で・・・特に、ベートーヴェンのトリプル、今回ほど面白く聴いた演奏は無かったように思います。これまで、センチュリーと京響で聴いているのだけれど、なんていうんだろうな、今回は、ヴァイオリンとチェロが僕が良く知っていて(当たり前や)好きな人で、そういう人が掛け合いながら音楽を作って行く、そういう空気を共有する、ということが魅力の一つの曲なんだ、ということが本当に良くわかりました。

だって、この曲が始まる前、舞台袖でソリストが三人大笑いしてるのが舞台に聴こえてきて・・・・要するに、そういう曲なんですよね。腕達者が楽しく合わせてくれる、そのこと自体がご馳走だという、これが「愉悦」なんですよ。

そしてそれは、ラヴェルでもそうで・・・・ソリストのプロシャイエフ君、決してベロフの様な圧倒的なヴィルトゥオージシティを有しているわけではないので、その点での突き抜けた見事さという魅力は感じられがたいのだが、大植さんとの師弟関係、そこから由来する心の交歓、音楽の愉しみの共有、そういうものがこの演奏の魅力になっていたのは確か。

それは、この曲の2楽章に端的に表れていて・・・もうそれこそ、大植さんの満面の笑み。僕も知らず知らずのうちに微笑んでいて・・・・ああ、そうだよね、3月以来、僕がここまでこころから音楽を楽しめた時間って、無かったかもしれない。そう思うと、少し泣けて来たりしました。

もう一度明日、いつもの席でこの感動を反芻したいと思います。

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入りがどれほど悪かろうが、立派な演奏会は立派な演奏会と言うべきでしょう・・・センチュリー定期

入りはどんどん悪くなってますね。でも、演奏は掛け値なしに立派なもの。

大阪 ザ・シンフォニーホール
日本センチュリー交響楽団第163回定期演奏会
小泉和裕指揮 日本センチュリー交響楽団
チェロ独奏 ウェン=シン・ヤン
ショスタコーヴィチ:チェロ協奏曲第1番変ホ長調作品107
プロコフィエフ:交響曲第5番変ロ長調作品100

前半は、チェロのソリストに感心、感動。

正直に言ってしまえば、1楽章、多分楽器が十分に温まっていなかったせいなんでしょう、今一つ切れにかける演奏で、「ショスタコのチェロコンを弾くには、他を圧するような存在感が必要。それには、十分たりえないソリスト」という想いが頭をかすめたのだが、2楽章以後が秀逸。

それを聴いて思ったのは、プログラムノートにある通り、この人、「音楽の哲学的な広がりを完全に把握している」・・・というより、そこにこの人のチェリズムの真髄があるように思いました。それは、このショスタコでの2楽章と3楽章に顕著。そこにあるショスタコーヴィチの屈折した精神性を表現して余りある、深い演奏。

それは、「震災の犠牲者に捧げます」という言葉とともに演奏された、バッハ無伴奏からのサラバンドでも一緒。この人、些細なテクニックというものを突き抜けて、一直線に音楽の宗教性に至ろうとしているように思います。そのことに素直に感動を憶えました。

後半のプロコフィエフは、小泉ダイナミズム炸裂のスリリングな好演。それに応えるセンチュリーも見事。

苦言を呈するなら、1楽章と3楽章が例によって例のごとく、小泉ダイナミズムにありがちなタメの足りないサクサク演奏で喰い足りないものになっていたことだけれど、2楽章と4楽章の爽快感はそれを補って余りあるもの。

正直に言ってしまえば、このプロコのシンフォニー、魅力のかなりの部分はアクロバティック・シンフォニック・サーカスにあるわけで、オケが巧くなければどうしようもない。その意味では、センチュリー、やっぱり上手いオケなんやなあ、と改めて思い知りました。とにかく、金管・木管のトップ陣が上手いことが必要十分条件のこの曲に、センチュリーっていうのは不足のないメンバーを擁するオケなんですよね。

そんなハイレベルのオケとハイレベルな演奏、それがここにあること・・・そしてそれを聴かせてもらえていること、正直に大阪の聴衆は感謝すべきなのではないか、と思った演奏会でした。

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