不惑わくわく日記

大阪でコンサートをあさっています。

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エイリアンにハンソンの交響曲2番

BSでエイリアンをやってたので、ついつい見てしまいました。こわいですねえ、何回見ても。

シガニーウィーバーの若い肢体の眩さ、そしてその演技と圧倒的な存在感に、改めて感嘆。

そして、最後の最後、彼女の安堵を包み込むような優しい音楽・・・これってもしかして・・・

やっぱし、ハンソンの交響曲第2番「ロマンティック」!!!

いやああ、知らずに見てましたねえ。初めて見た当時、てっきりオリジナルの映画音楽と思っていたけれど違ったんだ。

しかし、この選曲、抜群ですね。

名作に名曲、映画音楽って20世紀ならではの財産だと思います。

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ショス1聴きたさに西宮まで・・・・PAC定期

3日続けての演奏会、もうこれは、意地、ですね。

西宮 兵庫県立芸術文化センター
PAC管弦楽団第43回定期演奏会
井上道義指揮 兵庫芸術文化センター管弦楽団
ヴァイオリン独奏 ボリス・ベルキン
ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第1番イ短調作品77
ショスタコーヴィチ:交響曲第1番ヘ短調作品10
(アンコール:交響曲第10番より2楽章)

どうしてもこの演奏会には来たかったんです。それはなぜかというと、ショス1を聴く機会をこれまで3回逃していて、これが4度目のチャンス。それこそ、これをはずすともう聴くこともないかもしれない、と思ったから。

でまあ、これで1番を聴いたら、タコ響で聴いてないのは2番と3番と4番、それに14番。嬉しいことに、来季、ミッキーが14番をやってくれるらしいので、それでもう満足、ですね。充分です。2-4番は、別に聴かなくてもいいや、と思ってたりするんですよ。

で、期待の一番は、なかなかの練れた演奏で、良かったですね。PACオケ、巧いなあ、と思いました。ディベルティメント、と言っても良いこの曲、それゆえに腕自慢の若い奏者の能力がフルに発揮されれば、それだけで極めて魅力的なんですよね。なんの不満もありません。ミッキーの指揮も、颯爽と小粋に振りぬいたと言ったもので、これも慣れたものでしょう。

だから、ここまでの1番のあとに、アンコールの10番の2楽章が来ると、本来なら迫力ガンガンで拍手喝采、となる筈のものが、逆にいまいち、という印象になってしまうのだから、なかなか音楽というのは思ったようにはいきませんな。

実は、1曲目には大遅刻。西宮北口周辺は再開発が進んで、新たな商業施設が次々オープン。それで昼間は大渋滞なんですね、知らなかったけど。ついついこれまでと同じつもりで職場から車で乗り付けたぐすたふくんには大誤算。そんなもんで、1曲目は後半しか聞けなかったんですけど・・・・これがまあ、ベルキン氏の鬼神のようなヴァイオリンにただただ圧倒。この人、旧ソ連出身とのことで、かなりこの曲には入れ込みがあるようですね。

この3日間通して共通するのは、ソリストのバックグラウンド、というものが演奏に直結する、ということ。そのことが、強く印象として僕の中に刻まれたように思います。

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広上・京響の進化について

今回の演奏を聴くに至るまで、これまで聴いた広上・京響で一番印象に残っているのは、昨年の7月の「エレミア」の回。

振り返ると、こんな風に書いてます。

>今日の演奏会は、この「エレミア」がすべてであった、と言い切っていいと思う。そんなことを別にしても、この曲をこれだけの演奏で聴かせてもらえた、ということを素直に感謝してもいい。

>一言で言ってしまえば、「京響の弦の響きが巧く鳴れば、こういう曲にはこれ以上無い、と思うほどのクールな効果が得られる」「また、広上淳一のリズム感はそれだけで音楽を成り立たせることが可能で、2楽章のようなアメリカン・ポリリズムはまさに独壇場であると言っていい」「それに付いていけるだけの技量を有する(関西随一の)ブラス・セクションの爽快なサウンドは、いつもながら見事の一言」「そして、中低音域で下手をすればオケの響きに埋没しかねないようなフレーズを、しっかりとうき立たせるだけの芯のある音を持つフルートをはじめとして、木管の表現力の幅の広さは、この曲の陰影をくっきりと浮かび上がらせている」

>京響の美点、はこのエレミアのなかに、まさに集約されていたと評しても、過言ではありますまい。広上淳一という指揮者のそれもまた。そういう意味では、今日の演奏、この二つの魅力が互いにそれぞれを高めあい、ひとつの止揚へと達した、と評することも可能かもしれない。僕がこのペアに聴きたいと欲する、まさにその音が聴けた、と思います。これは到達点なのか、それともまだこれより先に彼らは行くことができるのか。

>「京響には北欧の音がよく似合う」とは以前より僕が主張していることだが、(中略)そういうことは、美点として特徴として、そして魅力やセールスポイントとして、京都の聴衆に認知されてしかるべしだし、これからも大切にしていっていいと思う。

そうなんですよね、まさに彼らは「これより先に」行くことができたわけでありまする。今回、ロシア物で聴かせたここまでの暖かな音。それは、新たな可能性の地平を指し示している、としていいのかもしれない。

一体、京響の弦はどこまで変わるのだろう?その到達点は、一体どのような響きなのだろうか?

ただただ願うことは・・・広上さん、長くお付き合いを。なにとぞよろしくお願いいたします。大植・大フィルなきあとは、広上・京響が唯一の楽しみでありますからね。

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豊穣の音楽とは、この音をいうのだろう・・・京響定期

広上・京響、これまで聴いた中で、今日のラフ2がベスト。

京都 京都コンサートホール
京響第546回定期演奏会
広上淳一指揮 京都市交響楽団
ヴァイオリン独奏 ゲザ・ホッス=ゴレツキ
尾高惇忠:オーケストラのための「肖像」
グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲イ短調作品82
ラフマニノフ:交響曲第2番ホ短調作品27

前半2曲については、あまり語るべきものはないので、割愛してもいいかしら?というより、今日のラフ2の印象が強すぎて、終わってしまえば、帰宅して今に至るまでそのことばかりを反芻しているというありさまだから。

ただ、グラズノフを弾いてくれた若いヴァオリニストについてだけ一言。席が一階席後方だったので、遠目にその姿佇まいを拝見したのだが、まあ、戦前のモノクロ写真に写った名ヴァイオリニスト、そのまんま!!奏でられる音もまた、正統的というか、その頃の巨匠然とした音のそれで、まるでハイフェッツか誰かが蘇って目の前に立って弾いてくれてるが如し。ただ、残念ながら調子が上がらなかったのか、そこそこミスがあってそれが残念。ホントはもっと巧いんだろうと思っていたら、アンコールにパガニーニのカプリスの即興演奏をハイパー超絶技巧で、どないや!ってな感じで弾き散らかしたのには度肝を抜かれました。ジプシーの血を引くとのことだが、昨日のピアニスト同様、こういうバックグラウンドならではの演奏者と演奏というものが存在することを、やはりまざまざと思わされます。

さて、ラフ2です。

どう書いていけばいいのだろう、と逡巡している自分がいる。こういう書き出しになる・・・・このブログを読んでくださっている長いおつきあいのかたなら、僕がこういう書き方をするとき、それは相当の感銘と思いがそこにあるんだ、ということはわかってもらえると思います。

これまで僕が京響を聴くとき、その演奏に感心することがあったとするなら、それはブラスのパワーであり、木管の名技性であり、サウンドのゴージャスさであったんじゃないかなあ、と思うんですよね。でも、今回のラフ2には、それは当てはまらないです。たしかに、ペットとホルンのここぞというところの安定感と響き、そして小谷口さんのクラリネットの奏でる陰影、これらが特筆すべきものだったとしても。

加えて、全体としての演奏自体、ほとんどミスや破綻というものが感じられない、立派なものであったことは言うまでもない。でも、そんなことに価値をおいて言っているわけでもないんです。

あえてそれを言葉にするなら・・・・広上さんの棒が導くフレージングと呼吸の自在さ、そしてその中から馥郁として香り始める響きの多様な質感、だということになるのかもしれない。ヴァイオリンの音は相も変わらず量感に不足している。でも、それがオケサウンドの中でこのオケ特有の質感を醸し出す時、その響きはえもいわれぬ幸福な時間をもたらしてくれる。

それが最も顕著だったのは、実は3楽章だったと思う。というより、明らかに今日のラフ2のクライマックスはこの楽章にあったんじゃなかろうか。ここまでの音を、僕は京響の弦から聴いたことがあったろうか? 

というより、これまでの京響の弦、大きな音を出そう、出そうと力を込めれば込めるほど、逆にその響きは硬くなり、拡がりを欠き、結局鳴らなくなってしまう・・・そんな場面に遭遇することの方がずっとずっと多かったのだけれど、今日はどこまでも音が「膨らんでいく」。そして、その先には、至福といっていい音が、それこそ天井から降り注ぐが如くで・・・・

ただただ「豊穣」という他のない音に身をゆだねることのできた、幸福極まりない時間であったと思います。1時間なんてあっという間。どこが長くて退屈な曲ですか、この曲が!!

終演後の拍手もすごかったなあ・・・・ほぼ満員御礼の客席の熱狂、広上さんが立たせようとしても容易に立とうとしない楽員たちの拍手の嵐。これは、僕がかつて大植・大フィルで見たものと同じ。

今、広上・京響は豊かな実りを迎えようとしているのかもしれないですね。

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アンデルシェフスキのピアノの音と、リープライヒの棒の音と・・・・大フィル定期

ピアノが良かった。

大阪 ザ・シンフォニーホール
大フィル第448回定期演奏会
アレクサンダー・リープライヒ指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
ピアノ独奏 ピョートル・アンデルシェフスキ
アルト 小山由美
合唱 大阪フィルハーモニー合唱団/ザ・カレッジオペラハウス合唱団(合唱指揮・本山秀毅)
プロコフィエフ:古典交響曲ニ長調作品25
モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番二短調K.466
プロコフィエフ:カンタータ「アレクサンドル・ネフスキー」作品78

感心したのは、アンデルシェフスキというピアニストの音。

この人もポーランド出身とのことだが、これまでポーランド出身のピアニストに接するたび、それぞれが極めて美しい響きを持っていることに驚かされることを、今回もまざまざと感じさせられました。

弱音から強音まで、音の一つ一つが響きの衣を纏っているんですよ。だから、強音も混濁しないし、弱音に至っては、まあ良くこんな音が出せるもんだというくらいの「息をのむ」美しさ。

そんな音で弾かれるモーツァルトの二短調のコンチェルトは、まあ何とも「耽美的な」佇まい。ここまでくれば、古典がどうの、ピリオドがどうの、ピアノフォルテがどうのフォルテピアノがどうの、という些細な話はどうでもいいじゃないですか、という感じでありましたね。

で、この人がどれほど「ピアノの響き」に対して非凡なる感覚を有しているかを遺憾なくわからせたのは、アンコールに弾かれたシューマンの「予言の鳥」と「別れ」の2曲。下手すれば、現代音楽といっても通るくらいの、先鋭の音感覚がそこにあって、シューマンはただそれに題材を提供したに過ぎない、と言いたくなるくらいのもの。いや、ポーランド恐るべしですね。こういう人が出てくるバックグラウンドが、絶対にあるんでしょう。日本人には逆立ちしても無理かもしれない、と思わず独り言が口を突きそうになる。

ところが、バックにつけるはずのリープライヒ君の棒が導く音の響きが、このアンデルシェフスキ君の響きとは巧く溶けあわない!!というより、はっきり言って、邪魔です。せっかくのピアノの音が、これじゃ台無し。

バックだけ聴いてればまあそれもありかなあ、というものだけれど・・・・ちょっとねえ。

これでわかるかもしれないが・・・・リープライヒ君(僕の5つ年下だから、君付けでいいよね)の棒が導く音は、シャープで極めて明晰。改めて、道義さんの棒の導く音との近親性を感じた(偶然かもしれないが、道義さん、今日の会場に聴きに来てましたね。休憩時間、ラウンジでお見かけしました)のだが、一方で音の肌触りや表面のぬめりといったものに物足りなさを感じる。どうもささくれた感触がするんですよね。

それは、プロコフィエフの2曲で明らかで・・・・古典交響曲は、早めの小気味のいいテンポといい、モダンな音感覚といい、それはそれで魅力的な表情を見せるのだが・・・さてプロコフィエフってそれだけだろうか?実は、この人、モダニストである以上に、ロマンティストではなかったか。そんなロマンティストの甘い香りが、そこから吹っ飛んではいなかったか。

そして、大作、「アレクサンドル・ネフスキー」。最後の壮大な合唱の質感・量感は見事なものではあったけれど(今日の合唱のテナー陣には、最大級の賛辞を惜しむべきではありますまい。よくぞ、この難曲、ここまで)、さて、途中のフォルティッシモの各場面、ただただ騒がしいばかりのがしゃがしゃした音像に堕していたといわれても仕方のないところも、無きにしもあらずではなかったかしら。

こうして見ると、このリープライヒという人、練習を緻密にやる人ではないのかもしれないなあ。わりと、雑把にざっくりと纏めてくるような人のように見受けましたね、今日は。

前回客演した時の2008年の記事を見直すと、「テンポが性急に過ぎ、音楽に落ち着きがない。そして、表現が表面的に過ぎる」と書いてました。ああ、やっぱり同じなんや、と思いましたね。じっくりと練り上げて行く、という趣には欠けるんだろうなあ。

正直に告白するなら・・・僕としては、この人には大フィルを任せたくはない、と思いますね。たまに来てくださるのは、大歓迎だけれど。

でも、この時期に日本に来てくれたこと、そのことには本当に心から感謝したいとは思っています。ありがとう、リープライヒ。





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一養軒

このごろ、家庭内にちょっといろいろ大変なことがあって、とても演奏会に行くどころではないです。

それでなくても、滅入ることの多いこのごろ、追い打ちをかけるようなものなんですが・・・

で、昨日夜、気晴らしに、京都・先斗町まで足をのばして、前から行こう行こうと思っていた「一養軒」に行って、一人ハンバーグとサラダにビールをひっかけてきました。

先斗町に、昭和の時間を止めている・・・そういう意味では、行きつけの「築地」という喫茶店と良く似た空間。

父親も、同じ空間に身を置いていたのかな。スーツに身を包んで、汗かきの額をタオルで拭きながら、ビールをひっかけていたのかな。

日本を支えた、数多くの大人たちがここに座ってきたのかな。

店をでて、先斗町の路地を歩くと、そこは雑踏。

お願いだから・・・・いいことをください、神様。

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