不惑わくわく日記

大阪でコンサートをあさっています。

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現代音楽の初演でブラボーが飛ぶのをはじめて聴く・・・・京響定期

ある意味、「現代音楽の演奏会」という言説が、ここにきて、それこそ「メタモルフォーシス」しつつあると思ってもいいかもしれない。

京都 京都コンサートホール
京響第541回定期演奏会
飯森範親指揮 京都市交響楽団
マリンバ独奏 三村奈々恵
西村朗:桜人~オーケストラのための~
吉松隆:マリンバ協奏曲「バード・リズミクス」作品109
ブラームス:交響曲第2番ニ長調作品73

マリンバ協奏曲のための演奏会。よく「初演は大成功であった」という記述、ありますよね。今日のプログラムの後半の、ブラ2なんか、「3楽章を繰り返すぐらいの成功であった」と。現代音楽を聴き続けてきたぐすたふくん、こんなことがホントにあるんかいな、と思っていたんです(^^;;)。ところがところが、今日の演奏会がまさにそれ。こういうのを、「初演が大成功」というんだなあ、と思いましたね。そのことにまず、何とも言えない感慨を覚える。現代音楽の初演でこんなことが起こる、そしてそこに居合わせられるとは思わなかったですねえ。

だって、マリンバコンチェルトが終わったとたん、四方八方から「ブラヴォー!!!!」・・・・はああ?これ、初演ですよね、それも2010年の? しかも、満場の拍手に客席から作曲家が立ち上がり、舞台に呼び出され、さらにヒートアップする喝采を受ける・・・こんなことが、ホントにあるなんて。

拍手を続けたぐすたふくん、もしかして、これ、「あまりの反響に、指揮者と独奏者は終楽章を繰り返さざるをえなかった」という記述が音楽史に刻まれるかもしれないかと思って、必死で拍手をつづけたのだけれど・・・・残念。でも、アンコールの、マリンバ独奏による「カヴァレリア・ルスティカーナの間奏曲」も絶品だったですけれど。

正直なことを言ってしまえば、このマリンバ協奏曲、ある意味、想定の範囲内の「吉松コンチェルト」。1楽章のミニマリスティックな卓越した盛り上げ方、2楽章の「バラード」と言っていいアダージョにスケルツォが織り込まれた師シベリウスばりの構成、そしてJazzyなスィング感満載の最終楽章、と「吉松節」聴きどころ満載の「ショーピース」。ある意味、吉松さん、自身の型を確立された、として良いでしょうね。最終楽章の3-3-2、3-3-4のリズム・シークエンスなど、まさにチェロ協奏曲「ケンタウルス・ユニット」のそれだし、2楽章のアダージョのなかには過去の「鳥3部作」の匂いや響きが浮遊する。ああこれこれ、来た来た、これが聴きたかったのよ、と聴くだけでワクワク、ぞくぞく、なんですよ。

ここまでくると、「ブルックナー開始」「ブルックナーリズム」と同じ域に到達した、としていいかもしれないなあ。やはり、長く続ける、姿勢がブレない、他にはない個性がある・・・・芸とはそういうものなのかもしれませぬ。

その意味では、1曲目の西村さんの作品も立派なもの。いつものように、美しい響き(シロフォンを弓でこすって起こる倍音のなんと美しいこと!!)を極限まで追求しながら、俗っぽい要素で聴衆にサービスする(さくらさくら、が出てくるとか、5音音階旋律をちりばめるとか)ことも忘れていない。現代的な音ばかりで構成されていいるにもかかわらず、とても聴きやすい、そしてなによりも「明るい」作品。

これほどまでに「明るい現代音楽演奏会」がありうるなんて、ぐすたふくん、想像もしなかったですねえ、ホント。だって、「序曲」ー「コンチェルト」ー「シンフォニー」っていう、近代シンフォニーコンサートの定番構成になってるんだもの。最後の「シンフォニー」がもし新作ないし準新作のシンフォニーだったら、それこそ画期的だったとおもうんだけどなあ。

だから、後半のブラームス、実のところかっちりとした良演であったことは事実だが、はっきり言って「どうでもいい」です。僕みたいな、「極道」聴衆、「こんな演奏、どこででも聴けますって」って思って聴いていたと思います(ごめんなさい、飯森君)。

近い将来、シンフォニーコンサートが20世紀作品・21世紀作品で構成される日が来る、そのことが「可能である」ということを身をもって知ることができた、画期的な演奏会だったと思います。

そして・・・京響のみなさん、マリンバ協奏曲の再演、真剣に検討してください。

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心の闇の魅力ーそれを表現するのは・・・・センチュリー定期

光あるところに影がある・・・・とは、「サスケ」のオープニングナレーションだけれど(笑)

大阪 ザ・シンフォニーホール
センチュリー第156回定期演奏会
沼尻竜典指揮 大阪センチュリー交響楽団
ピアノ独奏 エヴァ・クピーク
武満徹:弦楽のためのレクイエム
ショパン:ピアノ協奏曲第2番ヘ短調作品21
シューマン:交響曲第2番ハ長調作品61

この定期、当初「波の盆」がかかる、というので、もう、それこそワクワク最高潮で楽しみにしていたのに、突然の曲目変更。酷いよなあ、そんなのないよ、と言いたい。

結果として、ぐすたふくん、あまり期待せずに参加。まあ、そういう僕の態度もある程度影響しているかもしれないが、パッとしない演奏会、だったですね。

というのも、「レクイエム」今回ですでに実演4回目(!!)。これだけ聴いていると、流石にこちらも耳が肥えてしまいますよね(笑)。通り一遍の演奏では物足りないんですよ。

これは、シューマンの2番の演奏にも共通することなのだが、沼尻君、きっちりきっちり音楽の輪郭をつけよう、とするのだけれど、この曲にしてもシューマンの2番にしても、どちらも「背後の世界」と分かちがたく結びついている作品、そういうアプローチだけでは、こういう「音楽の背後にあるもの」が音のかなたに立ちあがってこないんですよね。

ここらへんが、沼尻君の限界、なのかもしれないなあ、と思いましたね。以前にも書いたけれど、この人、オペラやオラトリオ、宗教曲など、具体的な世界観やテキストがあれば、十二分にそれを音にすることができ、かつ魅力的な効果を上げるのだが、絶対音楽において抽象的なイメージを喚起するのはやや苦手、というか力不足、という気がするんですよ。

武満のレクイエムなど、処女作でありながら、遺作であるかの如くの切迫した心象世界が背後にあるわけで、それがストラヴィンスキーをして「何という厳しい音楽」と驚嘆せしめた作品。だから、そういう「心の闇」の厳しさ、峻厳さというものが立ち上がらなければ、ただ単なるのんべんだらりとした音の羅列になってしまう。

シューマンの2番にしても、この作品は、シューマンが心の病を発症するかしないかのころの作品で、音楽は光と闇との両極端の間を揺れ動く。「光」があるからこそ「闇」の美しさがあり、「闇」があるから「光」はより一層輝く・・・・沼尻君の造りは、明らかにシノーポリのそれを模倣していて、1楽章の序奏から主部へのつなぎかただとか、スケルツォのテンポ設定や噛みつくような弦内声部の際立たせ方など、こっちがデジャヴに陥るくらいにそっくり。でも、そういうアレグロの突進のダイナミズムは得られたとしても、それに照応する、井戸の底を覗きこむような3楽章のアダージョ・エスプレシーヴォのテンポがあまりにも早すぎ(アンダンテですよ、これじゃ)、それこそ「底が浅」くて、そこにあるはずの「闇」が「無い」。シノーポリは、そのどちらもをこれ以上は無いくらいに徹底してやっていたわけで、それがあの演奏の最大の魅力。そうすることで、「光」であるはずの所にすら狂気の匂いが漂ってくる。沼尻君の演奏は、そこら辺が空ぶり、なんですよ。

センチュリーも、この沼尻君のシノーポリばりの突進に必死でついて行っているのだが、ウィーンフィルでさえ破綻の際にまで行ったこの早いテンポ設定、やっぱり無理があったんじゃないかなあ。かなり雑な肌触りに終始していたように聴きました。

一方で、ショパンのコンチェルトの2楽章が秀逸。いわゆる「ロマンティック」ショパンの極北のような演奏で、低俗に堕するギリギリのところで踏みとどまった、と言う感じ。ライヴで聴くには、ここまで徹底してやってもらった方がいい。非常に魅力的に聴けました。その意味で、この楽章は、ソリストの勝ちでしたね。ただ、この人、技術的には3楽章でやや馬脚を現すところがありまして・・・・ショパンの2番は、1番よりも難物なんやなあ、と思い知りましたね。でも、総じて良い演奏だったと思うし、ブラヴォーも一番多かったです。

「演奏する」ということの難しさ、そういう生演奏を聴き続けることで初めて得られる感興、そして音のかなたを聴くこと・・・・「コンサート」とは、「生きる」ということなのかなあ。取りとめもなく、そんなことも思ったりしました。

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もうそろそろ、総括をしましょうか

今回の大植さんのリヒャルト・シュトラウスで、今年はおわり、ですね。

僕たちは、またここまで登ってくることが出来た。そのことを刻印する演奏。これで終わるわけにはいかない、絶対に・・・・その炎を、再び僕の中に灯した演奏、と言っていいかもしれない(おおげさかなあ)。ともすれば、コンサートゴーアーも8年、僕の中に惰性、という病が生じてもおかしくは無い時間。でも、僕は来年にむけて、あらためて情熱を滾らせていきたい。大阪という街で、まだまだ行ける、僕たちは出来る、と思わせてくれたこの演奏が、これが、今年のひとつの区切り、ですね。

だから、あと二回予定しているコンサート(センチュリーのシューマン、京響の吉松&西村作品)は、気楽に臨むつもりです。どちらも、センチュリーと京響のこれからの可能性を見通すことが出来るかもしれない演奏会。それをしかと見届けたい、それが一番かな。その結果として、僕の心はどうするのか。センチュリーに最後まで付き合う覚悟をするのか、そして京響を可能性を取るのか。

気楽といいつつ、その心が選ぶことが、実は真正であったりするかもしれないです。

実は来季、僕はこの二つのどちらかから身を引こうかと。それは・・・今年も、結果として42公演を聴きました。これから2公演聴いたら、44公演。6年連続45公演プラマイ2、という、まあなんという極道な記録(^^;;)。でも、もう限界、ですね。来年は、仕事の関係でこれほどまでにはシンフォニーに出かけることは難しくなる。不惑わくわくとなって8年を経過、もう不惑どころか、天命を知る時が近付いているものね(^^)。もう、不惑わくわく、でもない歳なんですよ。

だから・・・あと2回の演奏会、吉と出るか、凶とでるか・・・・楽しみ半分、不安半分、というところかしら。

でも、これって・・・・やっぱり、不惑わくわく、なのだわ!!(笑)

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大フィル来季のプログラム

大フィル来季のプログラムを見ての感想

「ほら、やっぱり’大地の歌’が来た。でも、おかしいなあ、ぐすたふくんの予想では、これが東京公演になるはずだったのになあ(2010(平成22年)年2月22日・・・なんと、2が5つ並ぶ日だったんだ、この日・・・の日記参照)。春の祭典も、大植さんの18番だけど、要するにストラヴィンスキーを一度も東京でやってないから、ということなのかなあ。マーラーはでも、これで一通り終わった、と思っていいんやろなあ。9番と8番をどこにあとぶつけるかのタイミング、というところかなあと。ブルックナーを来季、下野君がやる、ということは、再来季に大植さんが8番をやる、しかも東京公演、と言う線は、これは動かないと見た。しかし、慎重に佐渡裕に当てないようにバーンスタインを配慮してやるあたり、大植さんの人柄がしのばれるなあ」

さてさて、みなさんはどのように思われまするかしら?

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小石忠男氏が死去

今日初めて知りました。11月9日だったんですね。

僕がコンサートゴーアーになってから、何度シンフォニーホールでお見かけしたことか。そして、大フィルのお決まりの席は、僕の定期会員席のすぐ近く。確かに、今回の定期に来られてなかったことには、気がついては居ましたが。

ホールだけでなく、コンサート前に阪神百貨店の地下1階、イカ焼きの前にある寿司屋のカウンターに座って食べておられる姿を拝見し、あらら、こんなところで・・・と思ったことも。これも、思い出になってしまいました。

同志を失ったようで、滅茶苦茶寂しいです。ご冥福をお祈りします。

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以前、「R・シュトラウスを聴こうとする人は京都へ行くべきだ」と書いたが、今ここに至り「しかし、R・シュトラウスの弦の響きを聴きたい人は大阪に行くべきだ」と書かせていただく・・・大フィル定期二日目

史上最長のタイトル(笑)。昨日の定期、京響ファンの京都百科さんと一緒に聴かせていただいたというのに、こんなこと書いてすみません(^^;;)

大阪 ザ・シンフォニーホール
大フィル第443回定期演奏会(二日目)
大植英次指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
チェロ独奏 堤剛
ヴィオラ独奏 小野真由美
R・シュトラウス:交響詩「ドン・キホーテ」作品35
R・シュトラウス:交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」作品30

やっぱり、今日はドン・キホーテを仕上げてきました。やっぱりなあ、やると思った。十二分に練れた演奏へと変貌。それが一番顕著だったのは、エピローグ。ここでの大植さんと堤さんの呼吸の応酬(大植さん、こういう丁々発止のやりとり、本当に面白く絶妙なんですよねえ)、一日目はあまりの揺れ方に、流石にオケの付けがほころびを見せてしまったのだが(ソロとの練習時間は基本的に短いから、1日目は仕方がないと思います)、さすがは二日目、伸びる縮む、息をのむ・溜息をつく、変幻自在の音楽の表情の変化・変転のなんともいえない妙味。これぞ音楽。

逆に、ソロが絡まない他の所での粘りなどは、むしろ1日目よりも軽く処理していて(特に出だしなど、えええ?こんなにあっさり始まったっけ、昨日?と思うくらい)、なるほど、ここは切って、ここは押してと、色々と刈り込んできたなあ、と思いました。そうした結果が、全体として「仕上がった」感じに繋がったんじゃないかしら。

サウンド的に感心したのは、ホルンとユーフォニアムの一群が作りだすスペクタルサウンド。第7変奏で、ウインドマシーンをバックに吠えまくる客演の外囿祥一郎さんのユーフォの音のすさまじさ!!また、それを支えるホルン部隊のサウンドの腰の強さ!!大フィルのホルンがここまで強力なはずはない(失礼かしら?)ので、客演にはいっていた二人(内田さんと金子さんとプログラムにはあったが)のおかげとぐすたふ君は思ったのだが、そこらへんいかがなものでありましょう?どなたか、なにがしかの示唆をいただけると有難いです。

ツァラは、まあ1日目にもましてさらにパワーアップ。ただ、ペットの篠崎君の調子が、昨日は固くなった冒頭のアタックを無難にこなしたんで安心したのかなんなのか、昨日よりも上がらなくって、ちょっとハイトーンのミスが耳についていたのが残念。

しかし、何に感心したって、弦のサウンドですって。昨日も「良い音だなあ」と思って聴いていたが、今日はもう溜息以外の何物でもない。この曲、知っている人ならすぐに分かってもらえると思うけれど、「背後世界主義者について」の部分では、いろんな組み合わせの弦楽アンサンブル(チェロカルテットの上にヴァイオリンデュオがのっかるだとか、ヴィオラデュオが絡むだとか)が精妙極まりない変幻自在のサウンドを構築する場面が出てくるし、「科学について」ではベースの最後尾から弦楽アンサンブルが開始、音楽を絡め取るようにフーガが立ち上がってくるというぞくぞくする部分がある。こういうところの響きが、もう、元弦楽器奏者のぐすたふくんには堪えられないんですよ。ああ、これよ、これ、これなのよ!!もうダメ!!ダメ!!って感じですね(何もんや、おまえは(^^;;;)。

そのサウンドが、ついに舞踏歌において、燦然たる黄金の輝きを発散する生命の舞に昇華するにいたった時、ぐすたふくん、思わず涙が出そうになりました。このストリング・サウンドの素晴らしさをなんと表現すればいいのだろう!!まさに、オーストリア・ウィーンの香り、と評しても過言でないのじゃないかしらん。

思いましたね、ツァラ、大植・大フィルの持ち曲として確立しても良いんじゃなかろうか。いつ、どこに出しても恥ずかしくない、18番中の18番として育てていってもいいんじゃないかなあ。タイトルに書いたのは、そういう意味も込めてるんですよね。ここまでのストリング・サウンドを聴かせるのは、やはり関西ではここだけではなかろうかと。

1日目は、フライング気味に入った拍手も、今日ははっきりと大植さんが振り終えた所作を見せるまで、息をのんで見守り続けた後の熱いもの。何より今日は、カーテンコールの最後、大植さんに対しての拍手の沸き直しがあった!!大阪の聴衆は、正直だなあ。今日の演奏が、どれほどのものであったか、ちゃんとわかってるんだもんねえ。

昨日はテレビ中継が入っていたが、今日の方に入ればよかったのに。ちょっと、残念なぐすたふくんではあったのだけれど・・・・この演奏、CDになったら、即買いだな、と心に誓ったのでありました。

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ここまで練れた1日目を久しぶりに聴いたような気がする・・・・大フィル定期第1日目

ツァラが秀逸。

大阪 ザ・シンフォニーホール
大フィル第443回定期演奏会
大植英次指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
チェロ独奏 堤剛
ヴィオラ独奏 小野真由美
R・シュトラウス:交響詩「ドン・キホーテ」作品35
R・シュトラウス:交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」作品30

二日目も聴くので簡単に。

ツァラはほぼ完璧な仕上がりと聴きました。こっちも二日とも公演を聴くようになって久しく、1日目はこんなもんやろ、と予想して臨んでるんだけれど(まあ、なんて嫌味なクラオタなんでしょう)、それをはるかに上回る水準。それが一番。ほぼ過不足なく棒にオケがついていっていて、うねりだとか軋みだとか、そういうものが十分に現出されている。存分に練られた演奏、と評するに躊躇ないです。

加えて、ツァラの長原君のソロが良い!!これぞ後期ロマン派ウィーンの響き、と思わず呟きたくなるような音色で、堪能しました。

総じて、ツァラについては、満足、です。1日目でここまで持ってこれたのは、久しぶりだと思ったけど、どうかしら? きっと、このごろ練習がうまくいっているんだろうなあ。

比して、ドン・キホーテだが・・・・実は、この曲、同じ堤さんで以前大友・京響で聴いてるんですよね。そのときの堤さん、はあ?・・衰えはったなあ・・・と思った出来だったのだが、今日は見違えるような出来。いやあ、気合が入ってましたねえ。このチェロが良かったのが一番。

ただ、こっちの方はちょっとオケの方が練れてない。かなりほころびが・・・・大植さん、この曲、かなりきつい揺らし方をするし、遅いところはかなり粘るので、なかなかついていくのは大変やろう、とは思いました。特に終結部の遅さといったら!!

でも、これ、今日はこの程度だったが、もしかすると明日は・・・これが決まれば、大化けするかもしれない予感漂う、今日の演奏、とぐすたふくんは聴きましたが、さて如何に?

もし、明日間に合えば、確かめられますが、さあ、どうですかねえ??

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もう一度、今回のブラームスチクルスを振りかえる

今回のブラ3の衝撃に、一体僕は何を聴いていたんだろう、と過去2回の今回のチクルスの自分の記事を読み直してみました。

するとですね・・・・

「1番のシンフォニーは、一言で言うなら「ダイナミックさにはあえて寄りかかることを避け」「歌を歌いきることに専念した」「深々とした色あいと、馥郁とした香りに満ちた」名品であった・・(中略)・・・それは例えば、1楽章の提示部で突如として落ちるテンポであるとか(提示部の反復を今日は省略していたのも、ここら辺をじっくりやるので、繰り返した時冗長となる、と思ったんでしょう)、3楽章の遅めテンポであるとか、4楽章の第1主題を最後までインテンポで歌ってアッチェレランドせずに突如アレグロの経過部に突入するとか、コーダのまえもアッチェレランドをほとんどせず、突然2倍のテンポのコーダが出現するとか、そういうところに顕著に表れていたように思う」

「2番、予想以上に速いテンポ。だから、今日は、1楽章提示部の繰り返しがありました・・・(中略)・・・そしてそのあとに奏でられる2楽章、最初から最後まで途切れることのない、長い長いながーい歌、唱、謡。大植英次の棒は、まるで一息でこれを歌いきるかのように音楽を紡ぎ、切れることのない滔々とした流れを創っていく・・・(中略)・・・一方、4楽章、大植さん、この楽章はかなりテンポを揺らすんですよ。このアゴーギグに十分対応し、そしてここを外したら終わりや、という数か所のクリティカルポイントもなんとかクリア・・・突入したコーダ、最後のアクセルも綺麗に決まって地鳴りのような拍手・拍手・拍手」

この後にあの3番ですか・・・・こうして並べると、共通しているのは「強烈なアゴーギグ」ですね。それが、曲ごとにかなり異なる。大植さん、かなりいじってますね、「ここをこうして、どこをどうして」と。

4番で何をやるつもりなんやろう・・・・・ううううむ、2月まで待てと言うのか!!

後になって、今回のブラ3、あの演奏をもう一度聴きたい、という欲求がふつふつとわいてくる・・・・あああ、中毒でありまする。マラ5の時と一緒!!

大植英次、やはり「策士」ですな。



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これが同じ指揮者の同じブラ3か??・・・・大フィル・ブラームス連続演奏会III

これをして、大植英次を「策士」と呼ぶのが正しいのか、「山師」と呼ぶのが正しいのか・・・

大阪 ザ・シンフォニーホール
大フィルブラームス交響曲全曲演奏会III
大植英次指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
ピアノ独奏 フセイン・セルメット
ブラームス:ピアノ協奏曲第2番変ロ長調作品83
ブラームス:交響曲第3番ヘ長調作品90

一見してわかることだが(実際の演奏もその通りだったのだけれど)、この演奏会の重心は2番のコンチェルト。極言すれば、この曲のためのようなものと言ってもいいようなヴォリューム比、ですね。

で、この演奏がまあ火を噴くような熱演(特に前半の二つの楽章)。セルメット氏、直近では大友さんと京響をバックにやったモーツァルトの21番のハ長調協奏曲(曲を間違えてさらってきてしまった、というアレですね)の記憶があるが(それ以前にもう一つどこかでコンチェルトを聴いていると思うのだが、思い出せない)、その印象から、ぐすたふくん、この人、どちらかと言うと音色重視の繊細なピアニズムと勝手に思っていたんですよね。ところがどっこい、ぎっちょんちょん(どこの言葉や)、そんな先入観を根底からぶった覆すような、ガンガンに鳴らすピアノ。ひえええええ、御見それいたしました、許して下さいませ、平身低頭、雨あられ、であります。

アイコンタクトを交わしつつ展開する大植さんの棒も、なにより大フィル自身も、このセルメット氏のピアニズムあおられるかの如く熱を帯び、鳴るわ鳴るわ・・・・下腹に堪えるような、おおおおお、これこそブラームスサウンド。まあ聴いている方としては、これよこれこれ!!これを聴きに来てるのよ!!!まってました!!てな感じですね。「ブラームス連続演奏会」の看板にうそ偽りはございませぬ、と言うところでしょうか。

その一方で、へえええええ、この曲こんな音がするところがあるんだ、という、耳をそばだてる繊細な響きや表現にも欠けていない(一番感心したのは、1楽章の再現部からコーダへのブリッジの部分。ここが、かなり錯綜した和声になっていて、下手すれば無調に近い響きがするのには驚きました)。ただただ熱いばかりの単調なものに陥ってはおらず、そこらへんいかにも「大人の音楽」ですな。

こういう「響きの繊細さ」は、3楽章で一層顕著。最近の大植さんの傾向ともマッチして、匂い立つような芳香を漂わせる。チェロのソリの透明な響き(客演主席の上森さんのソロの美しいこと!)は特筆もので、極めて心地よい音楽。

ただ、これらに比べてしまうと、4楽章が今一つの感を抱いたのは事実。でもこれ、この協奏曲の「竜頭蛇尾」構造(この曲だけじゃなくて、ブラームスには良くある、と書くと、ブラームスファンに殺されるかも(笑))のせいかもしれず、演奏のせいではないかもしれないけれど。

拍手もすごかったなあ・・・・セルメット氏、非常に満足げな表情だったが、これが決してステージマナーではなく、本当ではないかと思ったのは、アンコールでひいたさりげない小品から。この曲、なんていう曲なんだろうとロビーのホワイトボードを除いても「調査中」の文字があるばかり(!!)。思うに、これ、セルメット氏の即興だったんじゃなかろうか。そうだとするなら、そういうことをやろう、と彼に思わせるだけの演奏ができた、ということなんじゃないかなあ。

でですね・・・・さて、コンチェルトが終わりました。ブラ3です。ぐすたふくん、この前の定期の、あの、重い重いブラ3を聴いてますね。コンチェルトが、こういう演奏でした。予想しますね。予想しますよね。こんなんになるかな、あんなんになるかな。さああ、どんなブラ3が来るのか・・・・身構えていましたね。すると・・するとですね・・・

・・・・まさかこんな演奏が待っていようとは。

例えて言うなら、「外角低めに重いストレートが来ると思ってバッターボックスに立っていたら、いきなりど真ん中にフォークボールが来て、空振り三振」、って感じでしょうか。

だってだって・・・だれがこんな速いブラ3が来ると思います?思っていた人います?予想が当たった、っていう人があったら手を挙げて下さい。いないですよね?

いきなり大植さん、煽る煽る、大フィル走る走る。そうかと思ったら、止まる止まる・・・え?は?へえ?てな感じであります。そうかと思うと、1楽章から4楽章までほとんどアタッカ。2楽章と3楽章は比較的落ち着いていたものの、4楽章になったら再び突撃!の進軍ラッパ。大フィル大変。だって、この4楽章、それでなくてもパート間のリズムの絡みが複雑で演奏至難の難曲(だから、アマチュアは滅多なことでは手がでない)、このテンポで押し切るのは、ある意味スリリングの極み。

結論から言ってしまうと・・・ぐすたふくんの率直な感想としては、この行き方、ちょっと大フィルには荷が重かったのではなかろうか。オケの鳴りが悪く、前半のコンチェルトと比較すれば、明らかに音楽が腰高で安定に欠ける。別に早くても音楽が地に足を付けていれば、それはそれでかっと胸を熱くさせるところまでいくのだが、残念ながらそこまでは至らなかったですね。

ただしかし、この極端な差は一体何なのだろう?そして、大植英次は、どうしてここでこんなブラ3を持ってきたのか。

好意的に解釈すれば、「大植英次のブラームス」はマンネリズムとは無縁なのだよ、という主張なのだろうか?確かに、朝比奈御大もそうだったかもしれない。同じ曲をやっても、出来不出来は極端、同じ演奏などありえない。だから、CDもいろんなテイク、いろんなオケ相手のヴァージョンが次から次から出てくる。大植英次も、そうだ、ということなのだろうか?

ここまで、あえて他の誰の感想も見ないようにして書いてきたのだが、さて、今日のブラ3をみんなはどう評価するのだろうか?この極端な速さを、どう感じたのか?

そして、最後のブラ4、あのいわくつきの定期の過去を踏まえて、大植英次は一体何をたくらんでいるのだろうか?

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