不惑わくわく日記

大阪でコンサートをあさっています。

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ブルックナーの9番と、ヴァント・WDRの全集

この話は、以前にもどこかで書いたことがあるかもしれない。

僕がちょうど今のろんろんの年齢だったころ(おそらくは高校1年生から高校2年生だったと思うのだが)、僕はラジオの深夜放送にどっぷりと浸かっていた。いわゆる、ながら族、という奴(いまや、死語、かなあ)。聴いていた番組は、当時の若者の例にもれず、オールナイトニッポンだとかABCヤングリクエストだとかヤングタウンだとか欽ドンだとか、そういうもの。でも、好んで聴いていた中にFM大阪の番組もあって、それは例えばジェットストリームだったり、「あいつ」(この番組、憶えている人いるかなあ?)だったりしたのだが、そのうちの一つに「クラシック・メディテーション」という、たしか水曜日深夜(木曜早朝、とも言いますわね)2時から3時までの番組があった。

この番組のオープニングが、シェーンベルクの「浄夜」第2部分の出だしの、あのヴィオラ以下のなんとも印象的なむせぶような旋律。いかにも「深夜」の「濃密な夜の香り」!! 当時、僕はこれが「浄夜」のそれとは分からなくって、この美しい曲は、一体、誰のなんという曲なんだろう、と思いつつ、真っ暗な自室で、イヤホンを左耳に突っ込みつつ、蛍光灯のスタンド光の下、カセット・テープレコーダーに向かって頬杖をついて聴いていたんですよね。

そんなある日のこと、それは多分番組開始15分ほど過ぎたところだったと思うのだが、ナレーションの女性がこんな言葉を呟いた。

「第9は一つの限界のように思われる。
それは、一種の超えてはならない壁のようなものだ。
第9を書いた者は、神の領域に近づきすぎたのだ」

もう30年もまえのこと、正確にはほとんど憶えていないが、大体このような文言だったように思う。そして突如、闇を突いて吹きあがるように、ヴァイオリン群がG線上でのlow HからCへの9度跳躍による絶唱を始める・・・・

これが僕が聴いた初めてのブルックナーだった。

もうお分かりと思うが、これこそが9番の3楽章の開始。実に、1時間のこの番組の半分にもなんなんとする時間がこの曲ただ一曲!!(今から思えば、なんちゅう選曲や、と思うけど)。その間中、僕は身動き一つ出来なかった。なんという音楽だろう!!!彼岸と此岸との間に峻厳として横たわるかのような、それこそ「この世のものとは思われない」音楽!!深夜の真っ暗な部屋のしんと静まり返った空気の中、それはまるで天啓のごとくに僕の体を撃った・・・

この時の体験が、僕のブルックナー感を決定づけたと言っていいですね。

だから、僕にとってはブルックナーといえば、この曲、なんです。他のどの曲が無くなっても、一向に構わない。この曲さえあれば・・・・この曲だけ、特別、なんですよ。

というより、この衝撃の出会いのあと、ブルックナーのどの曲を聴いても、全然ピンと来なくって、はあああ?なんですかこれ? 長いばっかりで、つまらん曲ばかり!! ホンマに同じ作曲家か?、という状態が長く続きました。9番以外の曲をFMでエアチェックしても、物理的に耳には曲は入ってくるのだが、脳に届かない、そんな状態。

だから、高校生の間は、ほとんど9番ばっかり聴いてたんじゃないかなあ。後で調べて、このとき放送された演奏が、カラヤン・ベルリンフィルのものだったということを知ったのだが、当時の僕にはこのレコードを買おうにもお金がない。そんなもので、友人が持っていたヨッフム・ベルリンフィルの廉価盤をカセットに録音して、それこそ擦り切れるくらい聴いてました。

だから、僕の中では、ヨッフムのこの演奏が定点としてある。剛直で真っ直ぐでダイナミック、その一方悠揚迫らざる大きな存在感も湛えた演奏。残念ながらこの演奏、単体でCDになっていない。数年前に同じヨッフムでシュターツカペレ・ドレスデンとのEMIの全集を買って、わくわくしながら9番から聴いたのだが、この演奏とは全然違うもので、滅茶苦茶がっかりしたんです。全然、とまで言うか、という話もあるかもしれないが、この9番と言う曲、ほんのちょっとの違いで、そこに「立ち現れるもの」がガラリと変わってしまうんですよね(そう思うのは、僕だけなのかしら?)

そんなもので、この全集に限って言うと、9番はほとんど聴かずじまい。ほかの初期のもの(前にも書いたが、1番と2番が秀逸)ばかり聴いていたんだけれど・・・そしたら今回、ヴァントがWDRオケを振った全集が廉価の限定盤でリリース。ユングさんがネットで絶賛していたので、随分前から予約していたんです。ところが、発売が延期に次ぐ延期、やっとのことで昨日送られてきた次第。そこでぐすたふくん、期待半分・不安半分、9番から聴いてみたんだけれど・・・・

!!!!これよ!!これこれ!!これですって!!!これが聴きたかったんだ!!

9番に限らず、この全集、どの演奏をとっても、毅然・剛直、終始一貫前のめり。早めのテンポをとり、豪快にブラスを鳴らしていて、エネルギッシュかつ生命感にあふれたもの。ある意味、「ごつごつした」肌触りがする。そうでありながら、独特の何とも言えない「存在感」がある・・・「体臭」と言い換えても良いかもしれない。音も良く、その点でもヨッフム全集のEMIのART処理に感じる違和感が無いのがうれしい限り。いい全集です、これ。

遅いテンポでじっくりと聖性を練り上げ、彼岸の存在を現出させる行き方もあるだろうけれど、僕はこういうのが好きだなあ・・・・そんなことを思いつつ、今日の日曜日は日がな一日、ヴァント三昧なのでありました(笑)。

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ルトスワフスキをこのオケでやるか?・・・・センチュリー定期

でも・・・・熱演の極み。

大阪 ザ・シンフォニーホール
センチュリー第155回定期演奏会
小泉和裕指揮 大阪センチュリー交響楽団
モーツァルト:ディベルティメントニ長調K.334
ルトスワフスキ:管弦楽のための協奏曲

実は、ぐすたふくん、今日は仕事が押して1曲目のモーツァルトには遅刻。途中から1階の一番後ろに入れてもらい、休憩時間になって定期会員の席に移動したのだが、そうすると、会員になって以来(もう丸5年!!)お隣さんのおばさん(多分50代)が自分の席に戻って来て、僕を見るなり開口一番、「いやあ、こんな曲やのに、来はれへんなんて変やなあ、おかしいなあ、って思ってたんですよお。お好きでしょう、こういう曲?」と言われたのには、思わず大笑いしてしまいました。そんな話、いままで一回もしたこともないのに!!(いや、ほとんど会話なんてないんですって、いつも挨拶程度)。よっぽど、隣で「こんな曲」のとき、身を乗り出して聴いてるんでしょうかねえ。なんか、ちょっと恥ずかしかったです。

それはさておき、肝心の演奏ですが・・・・演奏が終わった瞬間、僕の周りで、おじさんたちが一斉に溜息をつくように「Bravo!」の声を絞り出した、というのが非常に印象的。その気持ち、すごいわかりましたね。熱演、ここに極まれり、というような演奏。

ただ、正直言って、タイトルにも書いたような懸念が的中したのも事実。だって、3管フル編成かつ4本ずつのペットとボーン・5本のホルンを擁する管セクションに、12型の弦セクション(バスはたったの6本)をもってしてこの曲で対抗しようなんてのがはなから無理があるんですって。

だから、1楽章のブラスの咆哮の下を踏みならす弦の渾身のダウンボウ・トゥっティも迫力不足だし、そのあとの螺旋のようにブラス・木管・弦が絡み合っていくところも、身をよじるようなというか、キングギドラが3つの首を振りまわしながら金星の空へと飛翔するような凄絶さだとか(なんちゅう例えや)が出てこない。むろん、最終楽章のコラールでも、管楽器群の音塊と弦楽器群の音塊が激突して、軋みとともに火花を散らしてほしいところで、火花が飛び散りきらない、ということも起こる。

その一方で、この弦セクションが供給するクリアな音像がこの曲の幾何学的な美しさを際立たせていたのも事実。特に、弱音部分での木管セクションとの室内楽的なアンサンブルから聴かれる澄んだ美しさの魅力は、なんともいえなかったですね。

しかも、弦セクションは最後尾プルトまで全員が体を揺らしての気合の入れよう。欲を言えばペットがもう少し安定して輝かしい音を響かせてくれれば、というところはあったが、管セクションもまた名技性を十二分に披歴した見事な演奏で応え、聴き終わってみれば、実に満足な演奏、とするにやぶさかではないです。

ただまあ、やっぱりこの曲はもうワンサイズ大きなオケでやるべきやろ、ということもどうしても思ってしまうけどなあ。なんで無理してまでやる必要があるのか、という疑問を呈されても仕方がないとは思う。もっと他に、ふさわしい近代の曲はあるだろうに、と。

ところがその一方で、10-8-6-4-2の十分すぎる弦サイズで臨んだモーツァルトのディベルティメントが、編成が大きすぎてつらい、とくるのだから、なんともはや。この曲の1stヴァイオリンを、こんな大人数でやっちゃダメですって。よっぽど超越的に巧いオケの弦セクションでもない限り、一本に聴こえないですもん、難しすぎて。その辺が、うううううううって思っちゃいます。でも、3楽章のメヌエットのアゴーギグなどとても面白く(すっごくゆっくりで始まってだんだん上げていく)、ここでは、こういうアゴーギグを大人数の弦で暖かく聴かせる魅力も感じはしましたけどね。あとは、ロンドも良かったけど、この二つだけ。あとは・・・多くを語りますまい。

オケの身の丈、というものについて、いろいろと感じさせられた演奏会だったかもしれないですね。

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吉松隆のピアノ協奏曲

吉松隆の曲のCDは手に入る限りは手に入れているんですね、ぐすたふくん。これも、どちらかというと義務感、に駆られてという側面がないわけではない。コンサートーゴーアーになる、と決めた8年前、最初に現代曲初演に立ち会うことになったのが、関西フィルがやった「ケンタウルス・ユニット」。そこで初めて、僕はこの「吉松隆」という作曲家に出会い、こんな曲(ちょっと言い方は悪いですが)が「現代曲として存在しうる(いや、演奏されうる、と言った方がいいか?)」状況になったことに(久しくコンサートホールに足を運ばないうちに!!)、驚嘆したんですよ。

そこから、関西での吉松作品の演奏会には可能な限り足を運び、CDを買って既発表の曲にはなるたけ耳を通してきました。

ビートルズもさだまさしもそうだが(何に例えるんや(笑))、この人もやはり初期の曲が図抜けていい。だんだんと良くない、と思ってるは僕だけかしら。ただ、これら初期の曲には、どこか「死の匂い」が漂っていて、それが聴いていてつらく感じられることがある。その辛さに耐えられる精神状態の時には聴く気になれて、その「死の匂い」の上に漂う白い響きの美しさが心を打つのだけれども。

だから、実際に好んで聴く、となると中期の曲の方を手に取ることが多くなるんですよね。この人のCDの中ではタイトルに書いたピアノ協奏曲が含まれたCDを一番好んで聴くんです(交響曲では、4番のシンフォニーだけど・・・そういえば、似たところがありますね、この2曲)。確かに、このピアノ協奏曲にも「死の匂い」はまだ残っているのだが、それが雪のような氷のような空気の中に「腐臭」を昇華し消し去っていて、素直に胸に落ちるんですよ。この点、下敷きにしたと作曲家が公言している、モーツァルトの27番のコンチェルトとの類似性を濃厚に感じますね。そういう、「本歌取り」の効果もある、と思います。

ただ、このピアノ・コンチェルト、シンフォニーオーケストラをバックにする「協奏曲」ではない、ですね。極めて「パーソナル」な音楽で、むしろ小編成で、それこそ25人くらいのオケをバックに、100人足らずの聴衆を相手に奏されるのが相応しいような気がします。

出来ることなら、そんな演奏会が実現されて、その場に居合わせることができたならなあ。どこかやってくれないかしら?

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実は今、運勢は逆風のようであります

実は、ぐすたふくん、先月の19日に交通事故。たいそうな事故では無かったのだが、それはそれでいろいろ事後処理があって大変だったんですよね。

そしたら今度は、今日ネズミ捕りに引っかかって、速度超過の反則金・・・・・うううううう・・・・・

職場でもいろいろあるし・・・・人生、現在逆風まっただ中であります。

こういうときは、ジタバタしないでじっと耐える、冒険はせず、日々淡々と真面目に生きていくに限るらしいので・・・・・無理して演奏会に行くのも控えようと思っているのでありました。

そういうわけで、今日のびわ湖ホールオペラ、「トリスタン」いけませんでした。沼尻君、ごめんなさい(どういうわけや(笑))

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定期って・・・・大フィル定期

とりあえず、「海」っていい曲だなあと思ったのはホントです。

大阪 ザ・シンフォニーホール
大フィル第442回定期演奏会
オリバー・ナッセン指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
ピアノ独奏 ピーター・ゼルキン
ドビュッシー:「牧神の午後への前奏曲」
バルトーク:ピアノ協奏曲第3番
ナッセン:交響曲第3番
ドビュッシー:交響詩「海」

この中では、バルトークの3楽章と「海」が良かったかな。でも、全体としては、低調な演奏会だったと思います。拍手も薄かったし、終演後にさっさと帰る人も多かったし。

一つには、指揮のナッセンさんの指揮が、まあそれほどでないというか、通り一遍というか、まあこんなものか、という感じだったこと。第二には、ソリストのゼルキンさんのピアノが、期待以下だった(少なくとも僕には)、ということですね。

実を言えば、武満徹と小沢征爾の対談集「音楽」を何度も何度も読んできた僕としては、その中に何度も登場するピーター・ゼルキン、それはそれはすごいピアニストであろう、と思ってきたわけです。それで、今回何をおいても、ピーターが弾きに来る、しかもバルトークの3番を、ということで、はっきり言って、これを聴きに出かけたようなもんなんですよ。

ところが、このバルトークの3番、(かなりの)期待外れ。些細なことかもしれないが、この曲を、ピーター、譜面を置いて弾くんですよね。やっぱり、暗譜しましょうよ、と思ったんですよ。1楽章の見通しの悪さ、流れの悪さなど、聴いてる方としては、暗譜してないせいではないか、とすら思ってしまいますもの。2楽章も僕は退屈の極みとしてしか聞こえず(一緒にいったこすもすは、この2楽章、「響きがいい」といたく気に入っていたので、なかなか、僕の印象も当てにはなりませんが)、3楽章になってやっとこさ面目を保ったと言う出来、というのが正直なところです。

はっきり言って、ピーターに対して幻想を抱いていた僕が馬鹿みたい、と言う感じでした(おおお、そこまで言うか(汗))。でも、かつての若手の俊英も、もう70に近い御歳、年齢による衰えと言うのもあるのかもしれないけれど。かつての僚友、武満はすでに亡く、小澤さんもあの状態ですもんね、そりゃそうかもしれない。

他の曲だけど、ドビュッシーの2曲にしても、「牧神」などまったくどうということのない演奏だし、「海」も速いテンポでオケを振りまわす演奏。確かに、イギリスの優秀なオケであれば、このテンポとこの指揮で十分な演奏をするんでしょうけれどねえ、というような指揮ぶりで、哀しいかな、大阪の非ヴィルトゥオーゾオケ、なかなかこの指揮では十分な演奏効果を上げることは、困難では無かったかなあ。ただ、「海」という曲自体の魅力は十分に感じられて、それのおかげでなんとか「演奏会」としての面目を保ったかの印象ではありましたが。

その一方で、自作自演となる交響曲は、僕としては楽しませてもらいました(こすもすは、拒否、だったようだけれど)。確かに、解説の白石君が書くように、中間部から後半にかけての、うねる弦楽の響きは極めて魅力的で、この響きが聴けたことが、一番だったと思います。

全体としてみれば、「定期」っていうのはまあ、こんなもんなんかなあ・・・と思い知らされたような、演奏会だったと思いますね。今回はこんなもんで、と開き直られれば、それまで、という感じですよね。

率直な感想です。ご批判あれば、コメントくださいませ。

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僕は今日の演奏会を評価するけれど・・・・ヴッパタール交響楽団来日公演

地味な公演、だけれど、僕は上岡さんが好きなので。

西宮 兵庫県立文化センターKOBELCO大ホール
ヴッパタール交響楽団 来日公演
上岡敏之指揮 ヴッパタール交響楽団
ワーグナー:序曲「ファウスト」
ワーグナー:ジークフリート牧歌
ワーグナー:「ニーベルングの指輪」ハイライト

指輪からのハイライトは、

ワルハラ場への神々の入場~ワルキューレの騎行~ヴォータンのわかれと魔の炎の音楽~森のささやき~ジークフリートのラインへの旅~ジークフリートの死と葬送行進曲

という順番でした。

実のところ、2007年に横浜で偶然にも出会うことが出来た、上岡さんとこの交響楽団のペア、今回もここでまたご一緒出来るのも、偶然と言えば偶然。というのも、今日、高校時代の友人と神戸で会う約束が急に決まり、それならばそれまでの時間、途中の西宮でこのコンサートがあるのなら・・・・と行くのを決めた、と言うのが本当なんですよね。最初から行こう、と思っていたわけではないんです。

でも、僕の頭の中には、上岡さんのワーグナーとはどんなものなのだろうか?という興味があったことは確か。そうでなければ、わざわざ来ようとは思わないですよね(笑)。

会場に当日券で入ってみると、入りははっきり言って良くない。7割がやっと、という感じ。無名のドイツオケの関西公演、まあ仕方のないところでありましょう。でも、僕のとなりの隣には小石忠男氏が座っていたし、休憩時間には、ロビーに飯守泰次郎さんの姿を認めたり、とかなりの関西のコアなクラシックファンがやってきていたのは事実、だと思います。

しかもこのプログラム・・・さらに、やってくる人は限られるだろうなあ・・・・とも、思っていたのだが、実は最近発売されたこのペアのCDの内容と全く同じであることを発見して、とどのつまり営業ツアー・プログラムだったんだなあということを思い知らされ、ホントのことを言えばぐすたふ君としてはがっかりだったりしたんですけどね。欲を言えば営業でないプログラムで聴きたかった、と思うけれど、それは、このクラシックの商業主義的状況の下では致し方のないことなのかもしれませぬ。

で、実際の演奏はといえば・・・やはり、上岡さんの魅力、僕は聴かせてもらって良かった、というのがホントです。長い長いフレージングの妙、そしてこれまでのどの演奏からも聴かれなかったような独特なアゴーギグ。フレージングの妙味は、「ヴォータン」の中、それこそ一体どこまで続くのだろう、というほどの長さで維持され、その何とも言えない味わい。そして、独特のアゴーギグは、「ワルキューレ」での、え?こんなに早くやるの?というテンポ設定の中で、ううううむと思わされる独特の面白さを生む。このアゴーギグの妙は、アンコールの「エロイカ」からの葬送行進曲でも面目躍如。なんともかんとも「上岡節」炸裂、でありますね。

いずれにしろ、どれを取って見ても「巨匠」然としたスタイルは一貫していて、上岡さんのこの独特な棒をそれこを「献身的」に音にするオケにも感心。決して巧いオケではないのだけれど(それこそ、簡単にほころびを見せますもの)、しっかりしたバスを基礎に「キチンと」音を鳴らすこのオケの姿勢、前回もそうだったけれど、非常に好感が持てます。

だから、通して聴いたとき、名演か?と尋ねられれば、否、と言わざるを得ない公演だったとは思うけれど、こういう営みが日本人とドイツのオケとによって、当のヨーロッパで粛々と為されている、そのことの尊さを非常に思わされた、それが一番だったかもしれないと思います。

上岡さん、関西にはこれが初のお目見え。関西の聴衆、いったいどう聴いたのか・・・・横浜でも聴いたことのあるぐすたふ君としては、できれば今日の公演を聴いた人の率直な感想を聴かせてもらいたいものではありまする。

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濃紺のスーツ

久しぶりに濃紺のスーツに袖を通す。今日は、これを着なければならない。

職場ですれ違うたび「スーツ姿を初めて見ました」と言われる。そんなもんかなあ(笑)この職場に変わって、8年目(このブログを最初から知っている人なら、知っているだろうけれど)、そんなもんかもしれないね。

でも、濃紺の色調が、高校の制服のそれと同じであることを知った時・・・・・

もう一度あの頃に還ることができたなら、どんなにかいいだろう。

あの時、あの時間、僕はどんなにか幸せであったろうか?

一度、あの場所にもどろう、と思う。師と、語らおうと思う。

あの時間のことを、どうしようもなく、僕は想う。

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けいおん!!

いい年をした不惑オヤジが何を書くんや、と思われましょうが・・・・ろんろんとりんりんがこのアニメ、大好きなもので、家族で今回のシリーズ、全部見通してしまいました。

でね、このアニメ・・・・なかなか、泣けるんですよね、これ。

特に、今回の第26話(番外編第2話)など、なんとも切ないんですよ。

卒業アルバムを先生に見てもらいに、風邪で休んだ先生の自宅を訪ねるメンバー、そしてメンバーたちが、先生のために夕食を用意している間、そのアルバムのなかのメンバーの写真をそっとなでる先生の表情、だとか

4人のメンバーが卒業するために、一人残される在校の後輩が、部室で一人必死でギターをさらっている、それをドアの外でメンバーが聴き、そして邪魔をしないように帰っていくくだりだとか

最後、太陽に向かって駆けていくメンバーのスナップ、だとか

そのあとの人生、そんなに甘いもんじゃない、そんなことはわかりすぎるくらい、この不惑オヤジ、わかっていますよ・・・・でもね・・・・自分もあの時、同じように、甘い甘い時の中で(それこそ放課後ティータイム!!)、それはそれなりに一所懸命にやっていた、その「時間」に対する甘酸っぱい感傷を呼び起こすに、このアニメは十分な内容を持っている。

そして、明らかにこのアニメの時間は、現実世界から遊離した、このアニメを制作している世代(おそらく同世代!!)の「青春時間」の仮想世界。それは、そこに登場する録音機器が、なんとカセットテープであることに如実に表れている。(一方で、デジタルビデオがDVDもしくはCD-Rに焼かれるのに!!!)

現在リアルタイムに「青春」を謳歌している世代と、かつての「高校生」がここで同じ仮想現実を共有し、同じ思いを共有することができる・・・そのことに、素直に感謝。

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小泉和裕はなんとかならんのか

センチュリーの来季のラインアップが届きました。届きましたよ・・・・でも・・・・

小泉和裕は、何を考えておるんや!!!!!!!

ファウスト交響曲→プロ5→オネゲル3番→ブル2

やて!!!!!

いいかげんにしたらどうやねんな、自分のおかれた立場、わかってんのかいな。まるで、予算が潤沢にあるかのようなオケのプロ。

それに比べれば、沼尻君の

マラ4→ショス6

の方が、よっぽど気が効いてます。

やっぱり、このオケ、人選ミス、感覚のズレが顕著・・・・どうするつもりやねんな。

日本センチュリー交響楽団という名前に代えて、どうせ東京に行くつもりなんやろうけれど、そんなつもりやったら、ぐすたふくん、応援する気にもなりまへんで。

そこらへんのこと、よおおおおく、考え直した方がよろしいのとちゃいまっか?

などと、思った不惑極道なのでした。

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