不惑わくわく日記

大阪でコンサートをあさっています。

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7年前のバルトークの記事

昨日の日記のコメントにも書いたけれど、僕がHPを始めたのは7年前の2003年。その年、大植さんは初めての大フィルとのシーズン、3回目の演奏会に(アルジェントとバーバーという、アメリカからの手土産と抱き合わせるようにして)ブラ2を持ってきていました。奇しくも、そのシーズンの僕の日記には、この前も書いたバルトークの弦楽四重奏曲の記事がある。

こすもすがせっかく探し出してきてくれたことだし、再掲させてください。

******

「 バルトークの弦楽四重奏曲 2003年05月14日」

さて、今年もだんだん夏になってきました。で、僕が毎年、夏の間(まあ、5月から8月の間ということにして下さい)に自分に課している、ほとんど修行といっていいものがある。それは、

バルトークの弦楽四重奏曲を連続して全曲聴き通すこと

である。

これは、やった人でないと分かってもらえないと思うのだが、かなりきつい。(きついって思わない人いるんやろか?)でも、なんで、こんなことを毎年続けているかというと、

この曲のよさが、いまいちわからないから

なのである。

みんな、バルトークの弦楽四重奏曲は素晴らしいって言いますよね。ベートーベンの後期の弦楽四重奏曲に匹敵するくらい素晴らしいって。でもね、

どうしても僕にはそんなふうに聞こえないんです(涙)。

極めて緊張感の高い音楽だということは、認めます。異論ありません。でもね、どうしても素晴らしいって思えないんですよお。

で、これはきっと、僕に問題があるのだろうと、きっと修行が足りないのだろうと、そう思ってですね、少なくとも夏の間、(職場が夏休みで時間がとれる日もあるから)腰を据えて、ステレオの前に正座をして、この音楽の前に頭をたれて、精進しているわけです。

いつか、僕が他人に「バルトークの弦楽四重奏曲っていうのは、他に代えようのない、奇跡のような音楽だよ」って、本心から言える日がくるのだろうか・・・・

ああ、また今年の夏が来る。

独り言:
こう書いておくと、「実は、僕もバルトークの弦楽四重奏曲が素晴らしいなんてぜえんぜん思えなかったんです。よくぞそのことをおっしゃって下さった!さあ!今こそ、声を大にして言いましょう! 誰が、この曲がベートーベンの後期四重奏曲に匹敵するなんて言ったんだ!責任者出てこい!

*******

Yungさん、読んでますか? 私もやっぱり、こんなこと書いてたんですよ(笑)。

IMLPで、1番と2番の楽譜がみれたので、ダウンロードして見ていますが、なんとも美しい楽譜です。

ようやく、僕もここまでやってこれたんだなあ、としみじみ思います。

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今回のチクルスは、やはり再上昇へと加速する重要なミッションであることを確信する・・大フィル・ブラームスチクルスII

機首をあげよ、加速せよ、我に続け・・・

大阪 ザ・シンフォニーホール
ブラームス交響曲全曲演奏会2010/2011
大植英次指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
ヴァイオリン独奏 長原幸太
ブラームス:ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品77
ブラームス:交響曲第2番ニ長調作品73

明らかに、1回目よりも客が増えてます、今日。

そして、1曲目が終わった後の休憩時間、チクルス3日目のチケットを求める長い列が・・・・・

大阪の聴衆とは、なんと正直なのだろうか?こんなことが今ここで起こっていることに、どれだけの人が気付いているのか?いや、いままさに気づきの連鎖がさざ波のように起こり始めている、その現場に僕は居合わせているのではないだろうか?

今日の2曲、どちらも秀逸だが、方向性ははっきりと異なる。2番は、前回の1番の延長線上にあり、大植さんの今回のチクルスを貫くパースペクティブ、いささかもぶれがない、ということを感じさせるに十分なもの。

でも、ぐすたふ君としては、どちらを取るか、と問われれば、1曲目のコンチェルトの腹に堪える濃厚な音楽を取る。長原幸太の「無伴奏ヴァイオリン協奏曲」、ただただ彼の姿を凝視し、彼の音に集中した35分余りだったです。

それが顕著だったのは、第1楽章。ホントに、まるでバッハの無伴奏を聴かされているかのような、極めて厳しい音楽、峻烈極まりない音。瞬きすることすら許されないかのような、ピーンと張り詰めたヴァイオリンが、最初から最後までひと時たりとも緩むことがない。この音楽は、感傷だとか甘さだとかいうものを徹底して排除しているかのようで、その凝集力たるや比類ないと言っていいほど。

ただ、これ、2楽章になるとやや逆効果。音楽が「開いていかない」。この楽章、本当なら歌に乗っていく、歌が載っていくというような愉悦や楽しさがあると思うのだが、長原君のこの厳しさがあだになって、やや一本調子で単調、聴いているうちに「飽き」が来てしまいます。ぼちぼち飽きたなあ、と思うころにちょうどの楽章の終わりが来てちょっと助かった、という感じかな。

3楽章は、もっと飛ばすのかと思いきや、意外なスローテンポで、リズムを注意深く取り、この楽章の舞曲性を存分に堪能させる、これはこれで秀逸な演奏。大植・大フィルのバックは、1楽章の最初から、この長原君の熱演に取り込まれ、憑かれたような熱を帯びた濃厚な音を聴かせて見事。聴き終わってみれば、これぞブラームス、お腹いっぱい、参りました、という腹に堪えるものでしたね。

休憩時間、母親とラウンジでグラスを空けつつ、もうこれでいいのではないか?今日はこれで終わりにしてもいいのじゃないか?という話まででたくらいで、正直この後に同じような音楽が続いていたら、それこそ王将のラーメン餃子定食みたいに、もう結構、と思ったかもしれないですねえ。でも、そうじゃなかったんですよね。

2番、予想以上に速いテンポ。だから、今日は、1楽章提示部の繰り返しがありました。だから、1楽章は存外にあっさりとした、その一方で馥郁とした夏の花の香りをたたえたような、さわやかなもの。これで、コンチェルトの余韻や後味は、すうううっと僕の中から消えていく。

そしてそのあとに奏でられる2楽章が、今日の1番。これは、最初から最後まで途切れることのない、長い長いながーい歌、唱、謡。大植英次の棒は、まるで一息でこれを歌いきるかのように音楽を紡ぎ、切れることのない滔々とした流れを創っていく・・・ぐっと胸にきましたねえ。この楽章が終わった時、会場から小さな拍手が飛んだが、気持ち分かったなあ。そう、拍手に値する音楽。

この印象、帰ってきて改めて1番の時の感想を読み直してみて思いましたね、今日の2番でも一緒なんだと。大植さん、明らかにこれで行く、と決めてます。一貫している。ブレがない。

一方、4楽章。初年度のあちゃちゃあ(私、忘れもしません、再現部の第1主題から第2主題のブリッジ、ピアニッシモ後のGPからのフォルテの爆発、大見えを切った大植さんのつくり笑顔と実際に鳴っている悲惨な演奏とのギャップといったら。あのときの何とも言えない情けない気持ち、今でもはっきり思い出せますもん)を知っているものとしては、よくぞここまで、と涙をこぼしたくなるほど。良く練習されてましたねえ。

大植さん、この楽章はかなりテンポを揺らすんですよ。このアゴーギグに十分対応し、そしてここを外したら終わりや、という数か所のクリティカルポイントもなんとかクリア(コーダにおける、ボーンのハイDも鳴ってたように聴いたが、実際は?)した、今日の大フィルはエライ。(ついでに言うと、今日のホルン、池田さんが良く頑張ってはったと思います。終演後に真っ先に大植さん池田さんを立たせたのも、うんうん、と思いました)。

突入したコーダ、最後のアクセルも綺麗に決まって、朝比奈御大が「終わりよければすべてよし」と言った最後のニ長調の和音、それがひときわ壮麗にシンフォニーを揺らした後の、地鳴りのような拍手・拍手・拍手。この拍手、最後の最後、団員が帰りかけるまでボリュームが落ちない!!久しぶりじゃないかなあ、ここまでの拍手を聴いたのは。

確信に似たものを持ちました。いままた、僕たちは高みを目指しているのだ、と。今シーズン、僕たちはまた、改めて飛翔していくのだと。

3番がどのような姿を見せるのか、そしてまた・・・・「あの4番」は一体どんなものになるのだろうか?うううううむ、楽しみですねええ、ワクワク。

他をパスしても、絶対このチクルスだけは皆勤するぞ!!、と心に強く強く誓ったぐすたふくんなのでありました。

独り言:次はきっと、補助席がでるな。

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バルトークの弦楽四重奏曲

このHPをぐすたふくんが始めたころ、「バルトークの弦楽四重奏曲がわからない!!」「これを素晴らしいとみんなが言う理由がわからん!!!」「でも、修行だと思って、毎年1回は全曲聴くことにしてるんだ!!!」と叫んでいたことを覚えておられる読者の方がおられたら、随分と長いおつきあいをいただいているものと思います(笑)。

実は、今でも決して「わかった」わけではないし(音楽とは「わかる」ものなのか、という問いもあるでしょうが)、好きか、と聴かれると、やはり答えに窮するのだが、この7年間で随分と素直に聴けるようにはなりました。

これだけこの曲を聴くことを自分に課してきて、ひとつ確として僕が言えることは、「この6曲を、続けて聴いてはダメだ」ということですね。一つ一つがベートーヴェンのカルテットに比較して短くて、CDの中に3曲ずつ入っているものだから、どうしても続けて聴いてしまうのだが、そうすると「感じられるものも感じられなくなってしまう」。各々の曲が(陳腐な言い回しだが)それぞれの小宇宙を有しているこの作品群、一つの曲を聴いたら、ゆっくりとヘッドホンを外し(スピーカーで聴くには少々家族への遠慮が(笑))、コーヒーなり紅茶なりを入れて、曲の余韻と聴くことで自分の心の中に生じた揺らぎのようなものに時間をかけて浸る。そして、おもむろに次の曲に取りかかる。そういうことを繰り返すことで、やっとぐすたふくん、受け入れられるようになってきた、と思います。

でも、ぐすたふくんをここまで難渋させたこの四重奏曲群(だってバルトークの他の曲、管弦楽曲や協奏曲なんかは、ずっと容易に親しむことができましたもの)、そのこと自体が、これらの曲がバルトークの作品の中でも図抜けたものだ、ということを意味しているのかもしれないなあ、と思ったりもします。

そうしていると、最近こんな文章を見つけて、深く感じ入った次第(http://www.yung.jp/yungdb/op.php?id=427&category_id=5)。無断で申し訳ないのだけれど、転記させてもらいます。

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「バルトークの弦楽四重奏曲は、この形式による作品としてベートーベン以降最大の業績だといわれています。ところが、「そんなにすごい作品なのか!」と専門家の意見をおしいただいてCD等を買ってきて聞いてみると、思わずのけぞってしまいます。その「のけぞる」というのは作品のあまりの素晴らしさに感激して「のけぞる」のではなくて、作品のあまりの「わからなさ」にのけぞってしまうのです。
音楽を聞くのに、「分かる」「分からない」というのはちょっとおかしな表現ですから、もう少し正確に表現すれば、全く心の襞にふれてこようとしない「異形の姿」に「のけぞって」しまうのです。

「とにかく古典派やロマン派の音楽に親しんできた耳にはとんでもなく抵抗感のある音楽です。そこで正直な人は、「こんな訳の分からない音楽を聞いて時間を過ごすほどに人生は短くない」と思ってプレーヤーの停止ボタンを押しますし、もっと正直な人は「こんな作品のどこがベートーベン以降の最大の業績なんだ!専門家の連中は馬鹿には分からないというかもしれないが、そんなの裸の王様だ!!」と叫んだりします。
*************

ここら辺のくだり、ホントに大きくうなずいてしまいますね(笑)

*************

「しかし、作品そのものに関する専門家の意見というのはとりあえずは尊重しておくべきものです。伊達や酔狂で「ベートーベン以降の最大の業績」などという言葉が使えるはずがありません。今の自分にはとてもつき合いきれないけれど、いつかこの作品の真価に気づく日も来るだろう!ということで、とりあえずは買ってきたCDは棚にしまい込んでおきます。
そして、何年かしてからふと棚にバルトークのCDがあることに気づき、さらに「ベートーベン以降の最大の業績」という言葉が再び呪文のようによみがえってくるので、またまた魔が差してプレーヤーにセットすることになります。しかし、残念なことに、やはり何が何だか分かりません。
そんなときに、また別の専門家のこんな言葉が聞こえてきたりします。
「バルトークの弦楽四重奏曲を聴いて微笑みを浮かべることができるのは狂人だけかもしれない。」
「バルトークの弦楽四重奏曲は演奏が終わった後にやってくる無音の瞬間が一番美しい!」
全くもって訳が分からない!

しかし、そんなことを何度も繰り返しているうちに、ふとこの音楽が素直に心の中に入ってくる瞬間を経験します。それは、難しいことなどは何も考えずに、ただ流れてくる音楽に身を浸している時です。
おそらく、すごく疲れていたのでしょう。そんな時に、ロマン派の甘い音楽はかえって疲れを増幅させるような気がするので、そういうものとは全く無縁のバルトークの音楽をかけてみようと思います。ホントにぼんやりとして、全く何も考えずに流れきては流れ去っていく音の連なりに身を浸しています。すると、何気ないちょっとしたフレーズの後ろからバルトークの素顔がのぞいたような気がするのです。
それは、ヨーロッパへの訣別の音楽となった第6番の「メスト(悲しげに)」と題された音楽だけではなく、調性が破棄され、いたるところに不協和な音が鳴り響く3番や4番の作品からも感じ取れます。もちろん、それらの作品からは、「メスト」ではなくて「諧謔」や「哄笑」であったりするのですが、しかし、そういう隙間から戦争の世紀であった20世紀ならではの「悲しみ」の影がよぎったりするのです。
今までは全くとりつくしまのなかった作品の中に、バルトークその人の飾り気のない素顔を発見することで、なんだか「ウォーリーを探せ!」みたいな感じで作品に対峙する手がかりみたいなものを見出したような気がします。

そんなこんなで、聞く回数が増えてくるにつれて、今度はこの作品群に共通する驚くべき凝集力と、「緩み」というものが一瞬たりとも存在しない、「生理的快感」といっていいほどの緊張感に魅せられるようになっていきます。そして、このような緊張感というものは、旋律に「甘さ」が紛れ込んだのでは台無しになってしまうものだと納得する次第です。
また、専門書などを読むと、黄金分割の適用や、第3楽章を中心としたアーチ型のシンメトリカルな形式などについて解説されていて、そのような知識なども持ってバルトークの作品を聞くようになると、流れきては流れ去る音の背後にはかくも大変な技術的な労作があったのかと感心させられ、なるほど、これこそは「ベートーベン以降最大の業績」だと納得させられる次第です。

ざっと、そんなことでもなければ、この作品なじむということは難しいのかもしれません。
ユング君にとってバルトークの音楽は20世紀の音楽を聞き込んでいくための試金石となった作品でした。とりわけ、この6曲からなる弦楽四重奏曲は試金石の中の試金石でした。そして、これらの作品を素直に受け入れられるようになって、ベルクやウェーベルンなどの新ウィーン学派の音楽の素晴らしさも素直に受け入れられるようになりました。
音楽というのは、表面的には人の心にふれるような部分を拒絶しているように見えても、その奥底には必ず心の琴線に触れてくるものを持っているはずです。もし、ある作品が何らかのイデオロギーの実験的営みとして、技術的な興味のみに終始して、その奥底に人の心にふれてくるものを持たないならば、その様な作品は一時は知的興味の関心を引いて評価されることがあったとしても、時代を超えて長く聞き続けられることはないでしょう。なぜならば、知的興味というものは常に新しいものを求めるものであり、さらに新しい実験的試みが為されたならば古いものは二度と省みられることがないからです。
それに対して、一つの時代を生きた人間が、その時代の課題と正面から向き合って、その時代の精神を作品の中に刻みこんだならば、そして新しい技術的試みがその様な精神を作品の中に刻み込むための手段として活用されたならば、その作品の価値は時代を超えて色あせることはないはずです。その刻み込まれた精神が、それまでの伝統的な心のありようとどれほどかけ離れていても、それが時代の鏡としての役割を果たしているならば、それは必ず聞く人の心の中にしみこんでいくはずです。

おそらく、大部分の人はこの作品を拒絶するでしょう。今のあなたの心がこの作品を拒絶しても、それは何の問題ではありません。心が拒絶するものを、これはすぐれた作品だと専門家が言っているからと言って無理して聞き続けるなどと言うことは全く愚かな行為です。
しかし、自分の心が拒絶しているからと言ってそれをずっと拒絶するのはもったいなさすぎます。
人は年を経れば変わります。
時間をおいて、再び作品と対峙すれば、不思議なほどにすんなりとその作品が心の中に入ってくるかもしれませんし、時にはそれが人生におけるかけがえのない作品になるかもしれません。
心には正直でなければいけませんが、また同時に謙虚でもなければいけません。そのことをユング君に教えてくれたのがこの作品でした。

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深い洞察と、そして真摯な内観に満ちた、素晴らしい文章だと思います。

いつか、ここまでの境地に到達したいものであります。

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若者はどこまでも、どこまでも、どこまでも、果てしなく・・・PMFOピクニックコンサートその2

この記事は、下記の記事の補遺、もしくは追記です。
http://gustav369.blog101.fc2.com/blog-entry-64.html
曲目などは、この記事を参照してくださいませ。

さて、札幌滞在3日目です。1日目は大雨。ピクニックコンサートの間、合羽とかさの下、びしょびしょになりながら演奏を聴いていたのだが(よくやるとお思いでしょうが(笑))、昨日からは晴れ。昨日は、朝2番の飛行機に乗ったろんろんを千歳で拾い、支笏~昭和新山~洞爺~定山渓~札幌とドライブ。ぐすたふお父さんは少々お疲れでありますが、天気がよくて何より。今日は、ろんろんは札幌の友達と遊びに行ったので、ぐすたふくんはひとりでゆっくり。札幌市内を歩ける範囲で、ぽつぽつ見て回っては休みつつ、大通公園でビールやカクテルを昼間から引っ掛けつつ(あああ、極道ここに極まれり)、一昨日の余韻に耽っています。

実は、今日の朝になってホテルのノートパソコンが借りられることがわかって、そのマシンで2時間もかけて記事を打っていたのだけれど、なんとこれがトラブルで全部パー。ひええええ・・・やはり、なれないマシンで、いつもと同じようにやっちゃいけません(涙)。

さて、ぼつぼつと1昨日のことについて書いていきまする。

実は、ちょっとしたハプニング。野外コンサート会場で、同じ高校の同期、音楽評論家の山田治生くんにばったり。向こうもびっくりしたようで、「おまえ、なんでこんなとこにおるねん?」そらま、そうでしょう。かれは、スタッフの証明書を首から提げていて、仕事でここに来ているのは明らか。本来、大阪で堅気の仕事であるはずのぐすたふくんが、こんなとこに居るはずはありませぬもの(^^;;)。久しぶりの再開ではありましたが、時間もあまり無く、ちょっと言葉を交わしただけで別れたのだが、よくまあ、広い野外会場でばったりと出くわしたもんだ。これも何かの導きかもしれませんな。

ぐすたふくんは、一日目、関西からの一番の飛行機(神戸からしかないんですよ、これが)で北海道入りしたのだが、なんと真駒内から会場までは大渋滞。駐車場待ちの車の長い列で、びくとも動かず、会場入りできたのは1時半。そんなもので、札響の演奏は、くるみ割り人形の最後からしか聞けなかったです。

まずは、この演奏のことから書くと・・・・・一言で言うなら「パンチの効いた演奏」。これぞバレエ、というリズム感の横溢した楽しいもの。とにかく、ブラスが気持ちよく鳴ってて(ここらへん、やっぱり今の京響に似てるなあ)、対向配置で左手から中央に配されたバスもぶんぶん。このバス、聴いているときはPAのおかげとばかり思ってて、ああ、この野外コンサート会場のPAは秀逸だなあなどと思っていたところ、PMFOの1曲目を聴いて、あれれれれれ?・・・・とすると、札響のバス、PMFOよりもよく鳴っていたということか?失礼、御見それいたしました。「白鳥の湖」のフィナーレなど、なかなかの聞き物で、PMFOのショパンを聴きながら、あれだけの演奏をされたら、PMFOもつらいなあ、可哀想だなあ、などと思ってましたものね(笑)。

そんなもので、PMFOの演奏の話に飛んでしまうのだが・・・・1曲目のショパンは、このオケ、良く無かったです、正直。だから、そのときは、「毎年聴いているが、今年のPMFO、これまで僕が聴いた中で、下から数えた方が早い、そんな仕上がりと聴いた」と書こうと思ってたくらい(笑)。とにかく、アンサンブルが甘い甘い。加えて、管ではペットが無神経、などなど、あらが目立つこと目立つこと。

おそらくは、やっぱり練習が足りていない、ということに尽きるのかもしれないが、もうひとつには、ぐすたふくん、このオケ、「コンマスが機能していない」んじゃないか、と思うんです。これは、実は毎年思っていること。え?こんなところでどうして?というところでアンサンブルが乱れる、それはそのせいなんじゃないか、と思うんですよね。ここら辺、みんながイーブンで、ローテーションでポジションをこなす、PMFOの持つ根本的な問題のような気がして仕方が無いなあ。コンマスとは何か、という当たりをもう少し徹底したほうがいいのじゃなかろうか、などとえらそうなことをかいてしまう、不遜な極道中年オヤジを、若いプレーヤーの皆様、お許しくださいませ(m(_ _)m)

そんなもので、ショパンはひとえに、ピアニストの魅力に尽きる、といってよかったと思うなあ。2楽章の歌い回しなど「耽美的」という言葉がぴったりで、「痺れる」の一言。ただ、こういう「ラフマニノフ然とした」といってもいいショパンが、アリかナシか、という議論もあるのかも、と思っていた、というのも確かに僕の中にはありました。これを聴くと、ちょっと・・・と、こすもすは言うかもなあ、と。でも、ぐすたふくんは、アリ、と思いましたけれど。

で、ブルックナーです。

始まってすぐにわかったことは、今年のPMFO、昨年以上に強力なブラスセクションを有している、ということ(特にホルンセクションは強烈!!!)。一方、弦セクションではヴァイオリン群が若干弱い、という印象を受け、そんなオケが奏する1楽章は、「若いなあ」という印象が一番。

ところが、2楽章になった途端、このオケ、明らかに変わった、と聴きました・・・・こんな若いオケが、これほどまでに濃厚な「夜の音楽」を奏でようとは!!ヴァイオリンの音が1楽章よりもぐっと濃密さを増し、深い深い漆黒のトーンが立ち上る。そして、ワーグナーチューバの、この世の淵から突き上げてくるかのような、腹に堪える音の咆哮、その響きのすばらしさ。また、ヴィオラ群がぎゅっと目の詰まった響きで、これがこの「音楽の密度」をぐぐぐぐぐっと詰めてましたねえ。クライマックスでは、その闇を劈いて光が突如「横溢」。このサウンド、まさに「まばゆいばかり」。ただ、惜しむらくは、このティンパニ・トライアングルを戴いた頂点の後の、「後イキ」のようなホルン・ワグナーチューバのアンサンブル、もう一声耐えてもらえたら、もっと深い快感が得られたように思うのだが・・・しかし、これは欲のかきすぎかも知れませぬ(笑)。

そして、これで行くと、4楽章はとんでもないことになるに違いない、と思っていたら、案の定そのとおり。
強力PFMOブラス軍団、最初から全開バリバリ。「全開」どころか、ブルックナー、ここまでこんだけ吹いたらへろへろになっててもおかしくないこの4楽章においてすら、この連中、「全開」からさらに、さらに、さらにヒートアップ。こいつら、一体何者なんや・・・・そして、一体今、目の前で何が起こっているんや? 強烈な「生命」のエネルギーの奔流・・・・いや、これはもしかしたら、「生命」そのものではないのか? 彼らの「生」のエネルギーは臨界点を超えて、無限に無限に上昇を続ける。もっと行ける、もっと行ける、もっと行ける・・・・コーダの前、これでもか、これでもか、これでもか、と何度も突き上げてきた音塊は、最後の一撃でついに音楽の地平を突き破り、天空に向かって黄金に輝く「音楽の火柱」を吹き上げる・・・・その瞬間、確かに雷が、僕の頭から足の先までを劈いた、と思う。そんな彼らを、導師ルイージ、コーダはむしろ抑制気味、高貴かつ格調高く全曲を締めくくり、実に見事・秀逸の極み。

終演後の熱狂は前記事に書いたとおり。暗くなった会場、人はひとり、また一人と立ち上がり、惜しみない拍手を捧げる。若者は、晴れやかに立ち上がり、導師は彼らを称える。

この日・この時・この地に居合わせたことを感謝。そんな音楽をくれた彼らに感謝。その思いを共有できた、すべての人に感謝。そして・・・・今、ここに生きている、そのことをくれた神に感謝。

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若者はどこまでも、どこまでも、どこまでも、果てしなく・・・PMFOピクニックコンサートその1

実は、昨日も書きましたが、今札幌に来ています。

札幌 芸術の森 バーンスタイン記念野外コンサート会場

第1部 高関健指揮 札幌交響楽団
チャイコフスキー:バレエ「眠りの森の美女」抜粋(導入~リラの精、長靴をはいた黒い猫と白い猫、パノラマ、ワルツ)
チャイコフスキー:バレエ「くるみ割り人形」抜粋(行進曲、アラビアの踊り、中国の踊り、トレパック、花のワルツ)
チャイコフスキー:バレエ「白鳥の湖」抜粋(情景、ワルツ、四羽の白鳥の踊り、チャルダッシュ、マズルカ、終曲)

第2部 PMFアンサンブル
ビゼー:4つのコントラバスのための「カルメンファンタジー」
ドビュッシー:フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ
プーランク:ピアノ、オーボエとファゴットのための三重奏曲
ベートーヴェン:ピアノと木管のための5重奏曲変ホ短調 作品16

第3部 PMFシンガーズ
オペラアリア集

第4部 ファビオ・ルイージ指揮 PMFオーケストラ
ピアノ独奏 リーズ・ドゥ・ラ・サール
ショパン:ピアノ協奏曲第2番ヘ短調作品21
ブルックナー:交響曲第7番ホ長調

ホテルのロビーにある、有料インターネットで書いているので、とりあえず、今書きたいことだけ、取り急ぎ。

大阪公演、東京公演に行こうか、行くまいか迷っている皆さん!!

迷わず、行きです。行き!!今年は、すごい!!!

ブル7、すごかったです・・・・・こいつら何者や。いったい、どこまでいくんや。

詳しくは書かないが(書く時間がない)これだけは、書いておくと・・・

終演後、芝生席は総立ち。そして、隣に座っていた見ず知らずの若い女性が僕に向かって

「すごかったですよね?」

そして僕「すごかったです!!すごいですよ」

彼女「そうですよね、そうですよね、もう・・・私・・・・なにもかもぶっ飛んでしまいました・・・・」

誤解なきように書いておきますが、この一連の会話、もう一人聞いていた証人がおられますので、うそでも作り話でもありませぬ。

とにかく、このような演奏であったということを、忘れないうちにと思い、取り急ぎ公開しておきまする(笑)

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