不惑わくわく日記

大阪でコンサートをあさっています。

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1Q84 Book3

今日朝から一日がかりで読み終わりましたよ、1Q84 Book3。

実は、こすもすが発売とほぼ同時に買ってきて先に読んでいたので、僕としてはそのあとで一気に読もうと思っていた次第。

で、予想好きのぐすたふくん、今回のBook3に関しては、二つ予想していたことがあるんですよ。

その1.
Book1とBook2が、平均律クラヴィーア曲集のBook1、Book2に対応していて、それぞれ24の章からなり、12対になっている。だから、平均律にBook3がない以上、1Q84にもBook3がない、という可能性もありうる。ただ、Book1が3-6月、Book2が7-9月となっている以上、10-12月がある可能性は十分にあり、その意味ではBook3はありうるが、そうなると一体その体裁として、章の数としてはどうなるか?それを類推した場合、可能性として高いのはゴルドベルク変奏曲の30変奏プラスアリア、だろう。プロローグ、エピローグにはさまれた30章構成になるのではないだろうか?

その2.
Book3がもしあるなら、その内容の焦点は、青豆がどうなっているか、という点に絞られる。Book1とBook2のストーリーは「女性的なるものによる男性の救済の物語」と要約されるとぐすたふくんは思うので、もしBook3が書かれるとするならば、そこでは青豆が救済されなければならない、と思う。

で、このことについては、読む前にこすもすにも話してました。すると果して、章構成は、30プラス1章!!ううむ、これ、当たったとみるか否か。

その2に関しては、ほぼ当たっていたと思いますね。

で、こすもすと先ほどまで飲みながらしゃべっていたのだが・・・・Book3は、書かれるべきであったか、書かれるべきでなかったか。二人の結論は、「無くても別に良かったかもしれない。でも、読者としてはあった方が良かった。だから、このBook3は、村上さんの読者サービスなんじゃないかなあ」というところです。

これは、主にこすもすの意見で、確かに僕もそうやなあ、と思いました。だって、描かれるべき小説的イメージやメッセージといったものは、すでにBook1とBook2で全て提出されてしまっていて、Book3で新たに提示されるものはそれほど多くは無いんですよ(確かに牛込に付託されたイメージはBook3に特有のものだけれど、僕の印象としては、彼は、天吾と青豆を結びつけるためと、1Q84というパラレルワールドを閉じるために、仕方なしに呼び出された、単なる狂言回しにすぎないと思う)。

僕は、村上春樹の小説にとって「ストーリー」とは、そこに込められたメッセージや喚起される非言語的なイメージのための手段にすぎず、二の次三の次だ、と思ってるんです(これは、読者にとっては自明のことで、わざわざ文字にするなんて野暮なことなのかもしれないが)。その意味では、Book3は、Book1・2をただただ長く引き伸ばしただけにすぎない、ともいえるし、あのままで終わってしまっても良かったんじゃないか、という気持ちもどこかにあることは否定できません。

でも、「物語」としてBook3を読むことは、非常に楽しい作業だと思う。Book1と2で、????だったことが、ああそうやったんや、とすとんと胸に落ちるように作られている。そういう伏線だったんだ、うんうん、なるほどなるほどと。ただ、そうすることで、若干安くなってしまったんじゃないかしら、という気持ちもあったりするんですよね。特に、ラストなど、叩こうと思えばいくらでも叩けるし、山羊の口からでてくるリトルピープルのイメージのリフレインや、階段を下りて1Q84のパラレルワールドに来たのだから当然ここから出ようと思えば・・・・、などの仕掛けなどは、僕でも容易に想像がつく程度のもの。

だからまあ、僕としては、読ませてもらえてありがとうございます、でも出来はいかがなものでありましょう?といったところでありましょうか?

で、ネットではBook4のことを書いている記事もありますが、それは絶対にあり得ないと思う、とは断言しておきましょうか。




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これぞ、プロのお仕事・・・・京響定期

参りました。

京都 京都コンサートホール
京響第534回定期演奏会
秋山和慶指揮 京都市交響楽団
ストラヴィンスキー:幻想曲「花火」作品4
カバレフスキー:交響曲第4番ハ短調作品54
ムソルグスキー(ラヴェル):組曲「展覧会の絵」

ほぼ望みうる最高の出来、じゃなかっただろうか?さすがは、プロ、と思いました。

ストラヴィンスキーは、それこそ「瞬きしている間に」目の前を通り過ぎていくような音楽で、これをもたもたしてたらどうしようもない。これをさあああああっと、難しさを感じさせずになってのけるのがプロの技で、それを聴きに来てるわけだけど、まあお見事でしたね。ペットと木管の巧さといったら。多分この曲、これから生で聴くことがあるかどうか。ストラヴィンスキーの若書きながら、才気弾ける佳曲、聴く機会を得たことに感謝。

対して、カバレフスキーの4番は、この間のスクリャービンの2番と同じく、超ド級のロシアB級交響曲。実は、この曲のCD、現在大植さんがNDRフィルを振ったCDしか入手不可能で、やっとそれが今朝HMVから届いたばかり。朝から早速聴いてみた感想は、「なんじゃこりゃ??」。1楽章・2楽章はやたらだらだら長いばかりの退屈な音楽、一方、3楽章・4楽章は、ダサダサ・クサクサの安っぽさ満載の代物。サウンドは、「ショスタコーヴィチとプロコフィエフを足して4で割ったような」とネットのどこかに書いてあったが、まさにその通り。言いかえるなら、タコとプロコを「ソヴィエトブリュワリー謹製のビール」に例えれば、まさに「発泡酒」か「第3のビール」みたいなもんです。

でもね、これがまた・・・こういうB級交響曲をやらせたら、京響の右に出るものはこの日本には存在しないのではないか、と思えるほどの好演。面白かったなあ。スクリャービンの時にも書いたけど、こういう曲、恥ずかしいとか下らないとか微塵も思っちゃいけないんですって。バットマンでも仮面ライダーでも、怪獣映画でもロマンポルノでも、役者ならどんな役でも、大真面目に演じきるのがプロってもんです。オケもまたしかり、仕事を選んじゃいけませんって。

でもそんな「交響組曲スーパーマリオブラザーズ」、一級品に聴かせるのは、ひとえに「京響ブラス」サウンドの魅力、だと思うなあ。このごろ、ぐすたふくん、このサウンド聴きたさにここに足を運んでるようなもんだもの。

その魅力は、後半の「展覧会の絵」でも満開で、この曲はトップを取った菊本君のペットを聴くだけで値打ち、ですな。プロムナードのどソロは当然として、「サミュエル」での弱音器ペットの妙技、「カタコンベ」での弱音から切々と「みらーそーらーそーーーーふぁーー(音高適当)」と泣かせるこぶし、「キエフ」で天から降り注ぐプロムナード旋律の黄金の輝き、などなど・・・・「これを聴きたさに私ここにきたんです、他に何も要りません」と言い切ってももいいくらい。

それだけでなく、この「展覧会の絵」、極めて周到にサウンドが整えられていて・・・まるで、周知のフルコースディナーを、はいつぎ、はいつぎ、と供されているかのような錯覚を覚えるほど。実に見事です。

でも・・・・って、思ってしまうぐすたふくんって、やっぱし嫌味なクラおたなのかしら?

今日の演奏、この「展覧会の絵」より、僕はカバレフスキーの方に軍配をあげてしまう。それはひとえに、カバレフスキーの曲が要求していることが文字通り過不足なく実現されていたからじゃないかな、と思うんですよね。こう書くとえらく格好がいいけれど、要するに、カバレフスキーの曲の中に音の「喜悦」や「愉悦」以外の何があるんだろう、とも言えると思うんです。

逆に言えば、「展覧会の絵」を聴きながら、贅沢極まりないぐすたふ君は、何を考えていたのか・・・・それは、「展覧会の絵」の演奏って、これでいいのかな?ということなんですよね。

それを説明しろ、といわれても答えに窮するのだけれど・・・・次のような事実を示すことで、なにがしかの説明になるだろうか?

今日の「展覧会の絵」の中で、僕が一番感銘を受けたのは、実は「ビードロ」。ところが、この「ビードロ」、今日の演奏の中では最も出来が悪かったんですよね。

秋山さん、この「ビードロ」かなりのスローテンポ。これがソロを取ったユーフォニアムの奏者にはつらかったようで、青息吐息でかなり危なかったんです。

ところが、この青息吐息の今にも倒れてしまいそうなユーフォニアムが、まるでこの「ビードロ」が暗喩している「処刑上に連れて行かれるユダヤ人」のイメージを僕の中に喚起し、それが何ともいえず印象的だったんですよ。

秋山さんが、それを意図していたかどうか・・・意図などしていなかったかもしれない、それはたまたま偶然の産物としてそこにあっただけかもしれない。でも、僕はそこに、音楽の向こうに、その時間そこにしかないものを見たんです。

つい数日前、傷だらけの大フィルのコープランドの向こうに、大植英次の「アメリカ的なるもの」へのオマージュを見通した僕は、今日の「展覧会の絵」がこの瞬間だけ見せた「音楽の彼岸」、それが壮麗なる「キエフ」の中に見えないことを感じた時、なにがしかの物足りなさを感じたのかもしれないですね。

でも僕は、いつか広上淳一がショスタコーヴィチをして京響の中にこの「彼岸」を現出させる時が来ることを確信しており・・・・その時まで、きっとこの場所に居続けるのだと思います。

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二日目は演奏会としても一級・・・大フィル定期二日目

やはり、と思わせる演奏。

大阪 ザ・シンフォニーホール
大フィル第437回定期演奏会二日目
大植英次指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
ピアノ独奏 アンドレアス・ヘフリガー
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番変ホ長調「皇帝」作品73
コープランド:交響曲第3番

今日はまあ、1日目の雪辱戦ですな。

ヘフリガー君も、昨日よりは格段に精度の高い演奏(でも、自分勝手に引き散らかすのは一緒だけど(笑))。きっと今日は満足の行く出来だったんでしょう、カーテンコールも笑顔だし、なんとアンコールもあり。このアンコールが良かった。モーツァルトのh-mollのアダージョ。最後の数小節、まるで涙にまみれた顔で無理やりに笑顔を作り、「大丈夫だよ」と言って見せるが如くの、唐突な長調への転調、それがシンフォニーの空間に溶け込むように消えていく時間の美しさ!!!

万雷の拍手。まあ、この後の彼のうれしそうな表情と言ったら・・・・昨日の演奏に対しては、悪口雑言あめあられだったぐすたふくんですが、今日の彼の様子をみていると、実は彼、最近の優等生揃いの若手演奏者のなかでは珍しい、芸人然・芸術家然とした愛すべきひとなんじゃなかろうか、と逆に親しみがわいてしまいました。よっぽど昨日は調子が悪かったんでしょうかねえ。こんな人もいるんやなあ、などとしみじみ思ってしまいました。

コープランドも、1楽章が雪辱戦。昨日は、1楽章が一番ダメだったと思うのだが、今日は最初からエネルギー全開、ペットも気合全開であります。そこら辺からして、尋常ではない緊張感。大植さんの指揮もさらに濃厚さを増し、2楽章以降の音楽の流れも、まったく隙がみられない。全体を通して、昨日よりもさらに立派で、名状しがたいある種の精神性(この曲がヨーロッパ的な神の概念に連ならないものであることが自明であるのなら、そこにあるものは「アメリカ精神」という言葉で言うしかないと僕はおもうのだが)を宿すまでに至っていたように思います。

聴いているこっちも、どこらへんが難関だかわかってしまったので、そこが近付くと、がんばれ・ばんがれ、と力がこもることこもること・・・ここらへん、ちょっと本来の聴き方とはちがいますがね(笑)。

決して息切れすることなく、堂々たるラストの悠然たる歩み。それが、壮大なコードで締めくくられた後、十分な間を経て沸き起こった拍手は、昨日の3倍はあろうかという盛大で温かなもの。大植さんが振り返って初めてかかるブラボーの声・・・・ううむ、今日はいかにも「成功した演奏会」でありまするな。

そのことも、良かったなあ、と思ったことだったのだけれど、それよりもなによりも・・・実のところ、ぐすたふくん、この曲が大好きなんですよ。どれだけ生で聴く機会を待っていたことか。

出会ったのは、今からちょうど12年前、サンフランシスコでティルソン・トーマスのSFSに出会ったときに、その流れで。だから、僕は、この曲のサウンドの中に、あのアメリカの風景(それは本当は、僕が目にしていた西海岸のそれと、コープランドの視線の先にある東海岸のそれとはちがうのだろうけれど)、そしてそこに暮らす人たちのメンタリティー、そういったもろもろのものを、肌感覚ととして感じ、匂いとして嗅いでしまうんですよ。そして、そこにある「人々を信じる」「皆を愛す」力、というものを確信として感じることができたとき、人間とは捨てたものではない、と思うことができる気がするんです・・・だって、第2次世界大戦直後の音楽なんだもの、これは。

この音楽を、ここ大阪で聴くことができたことを、僕は本当に感謝したい。

大植さん、ありがとう。

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アルペンの1日目よりは遥かに良かったが・・・大フィル定期

ひとこと、立派、と声をかけたい、です。

大阪 ザ・シンフォニーホール
大フィル第437回定期演奏会
大植英次指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
ピアノ独奏 アンドレアス・ヘフリガー
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番変ホ長調「皇帝」作品73
コープランド:交響曲第3番

実を言うと、いろいろ職場であったもので、皇帝の1楽章には間に合わず。2楽章から立ち見してました。

しかし、このピアニスト、酷かったなあ・・・勢いに任せてがしゃがしゃ引き散らかすタイプのようで、ここまでミスタッチが多いと、いくらダイナミズムやグランドマナーを披歴する方向でのベートーヴェンだと居直ることが可能だとしても、感興を殺がれることはなはだしい。あまり、ぐすたふくん、ミスがどうの、あそこが違っただの言いたくはないのだが、今日の彼の演奏を聴いていると、「ベートーヴェンは、すべての音符に意味があるのだから、それらが正確に打鍵されることが最低限必要なことであって・・・・」という、ちょっと嫌味なクラオタ的言説を弄したくなってしまいます。こんなこと思わされた人、久しぶりですよね。しかも、この間のカプソン君同様、カーテンコールもえらくぶっきらぼうで、当然アンコールもなし。まあ、好意的にみれば、今日の演奏、納得のいくものではなく、自分で自分に腹を立てていた、のかもしれないけれど。

この皇帝の時には、それなりに入ってるなあ、と思っていたのだが、いざ今日の舞台袖のバルコニー席に座ってコープランドに臨むと、あにはからんや、入りは決して良くないことに気付く。曲のせいなのかなあ。

結論から書いてしまえば、今日の演奏は、立派、だと思いました。

もひとつ結論を書いてしまうと・・・・多分、今日の演奏、オケの演奏精度をしてああだこうだと批判や非難をすることは、いともたやすいことだと思うんですよ。正直、傷だらけ。ヘフリガー君のピアノ以上、ですね、これは否めません。

でも、音楽は収斂していて、特に2楽章あたりから俄然「内的緊張」をたたえ出し、3楽章のややビターな抒情や、4楽章の(やや乾いた)人間賛歌の高揚など、十分な内容をそこに盛ることができていたと思うんですよね。この点、アルペンの1日目とは違っていた、と思います。

とにかくこの曲、ブラス(特にペット!!)が大変!!!!!!だって、あの「市民のファンファーレ」のハイトーンが、最後の4楽章になって、これでもかこれでもか、と出てくるんですよ。2楽章のダンス・ミュージック、これを吹き通すだけでもたいへんやろうなあ、というくらいの(ほとんどブラスバンド並み、いやそれ以上かも)ところを通り抜けてきて、その先にこの4楽章がある・・・・これってどうよ?今日、生で聞いてみて、この4楽章の難易度、半端やありまへんで。もともとコープランドが想定していたは、ボストン・シカゴといったアメリカのスーパーオケなんやろうなあ。シカゴのあのブラスならば、これを難なく吹ききることができるのだろうが・・・・極東の非ヴィルトゥオーゾオケには、きついものがあるなあ。

だからこそ・・・と、ぐすたふ君は思うんですよ。よくぞここまで、と。

でも、そう思った聴衆はそう多くは無かったようで、十分な量感で締めくくった割には、沸き起こった拍手は気の抜けたサイダーのよう。ブラボーもなし。ぐすたふくん、これには抗議の意をこめて、あえてスタンディングで拍手を送りました。

どれほど立派な仕事であったか、そのことを理解してほしかったなあ・・・・聴衆も、おそらくは金輪際聴くことはないであろうこの曲をやってくれたこと、それを感謝する、という気持ちもあってよかったんじゃないか、と思うけど。

でも、ひそかに二日目がどうなるのか、それに期待胸ふくらますぐすたふくんなのであります(笑)。

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ジャパン・オリジナル

今日の、広上・京響の演奏を聴いて思ったのだけれど

切に

「日本のクラシック音楽」を
「日本の作曲家」を
・・・・・・・みんな大事にしてほしい!!

作曲家の人たちは、

「日本のクラシック音楽の聴衆」を大事にしてほしい!!!!

演奏者の人たちは

「聴衆志向の音楽」を斜めに見ないでほしい!!!!

そして、みんなで

「自分たちのオーケストラ音楽」を育てていきたい!!!!

ロックバンドもジャズバンドもジャパンオリジナルがあるなら、

オーケストラだってジャパンオリジナルがあるべきだと思う!!!!

・・・以上、

叫びでした(笑)

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大河ドラマのテーマ曲は邦人作曲家を聴衆にアピールする絶好のマテリアルだと思うので、NHKはその辺よおおおおおく考えて頂きたいものであります・・・・京響スプリングコンサート

最長のタイトル・・・でも、偽らざる気持ちでありまする。

京都 京都コンサートホール
京響スプリングコンサート
広上淳一指揮 京都市交響楽団
佐藤直紀:龍馬伝
芥川也寸志:赤穂浪士
湯浅譲二:元禄太平記
林光:花神
一柳彗:翔ぶが如く
渡辺俊幸:利家とまつ
吉俣良:篤姫
大島ミチル:天地人
ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調「田園」
(アンコール)ジョン・ウィリアムス:スーパーマンのテーマ

満員御礼、いやあああああ、良く入りましたねえ。定期で完売になっても、聴きに来ない形だけ会員の人たちが京響の場合多いので、びっくりするほど席が空いているのだけれど(ここらへん、京響特有の問題と思うが)、今日に限って言えば、ほとんどチケットを買った人は来てたんじゃなかろうか。ここまで京都コンサートホールが埋まったのを見たことがあったかどうか。

ただ、その分コンサート慣れしていない聴衆の方も多かったようで、田園で楽章間に拍手がパラパラ挟まったのはご愛敬かな。そんなことは些細なことで、みんなのわくわく感が会場に満ちていたことがぐすたふ君としては、本当にうれしかったです。

こういうコンサート(今年は2回目と言っておられたが、去年はもうちょっと硬いプログラムだったんじゃないかしら?)は、持って行き方でどうとでもなるのだけれど、今日は全体としてはうまくいったたんじゃないかしら。

でも、欲を言うなら「田園」の出来はちょっとお世辞にも良かったとは言い難いものでしたけれどね。広上さんの棒が空ぶってましたもの。無理して、ベートーヴェンを持ってこなくても良かったとおもうけどなあ。いろんな思惑があっての選曲(運命からわざわざ代えましたものね)だったとは思うが、結果としてこの「田園」は「失敗」だったと思います。前半の出来があまりに良かっただけに、余計に。

だから、「田園」については、今回ぐすたふくんとしては沈黙させていただくことにしますね。

で、前半についてのみコメントすると・・・やはり、「龍馬伝」と「天地人」にとどめをさす。京響ブラスの魅力爆発。胸高鳴る、という以外になにがありましょうか。広上さんの指揮も、その魅力、まさに「満開」でありまする。

そのほかでは、「花神」と「利家とまつ」での京響ストリングセクションの甘い香りの絶品さ。こういう曲を弾かせたら、関西では京響の右に出るものは居ますまい。

ただ、それに対して、やはり「元禄太平記」と「翔ぶがごとく」はスコアが難しいと見えて(ううむ、やはり湯浅譲二と一柳彗、曲者であります)、苦労してるなあ、という感、ひしひしと。一方、存外に「篤姫」、曲としては面白くないとぐすたふ君は聴きました。でも、この曲を聴きたさに来た人たちは多かったみたいで、演奏が始まった瞬間の会場のわくわく感はこの曲が一番テンション高かったですけどね。

で、ですね・・・よかったです、今日のコンサート。実は、ぐすたふくん、大河ドラマテーマ曲の大ファン。その昔、池辺晋一郎作曲の「黄金の日々」のテーマ曲にしびれて、これを自分で譜面に起こそうとしたくらい(これ、実は結婚してから、こすもすも一緒だったということを知って、お互い手を握り合ってうなづきあったというおまけ付き(笑))。家には、「信長」の時に発売されたテーマ曲集のCDがあります。

だって、考えても見てくださいよ、フルオーケストラが豪勢に鳴りまくるテーマ曲を擁する番組、大河ドラマ以外にありますか?これで初めてフルオーケストラに接する人だっているわけですよ。そこで、ぐっときて、オケ曲の魅力にはまるひとだって(僕やこすもすがまさにそうだったように)、かなりの数居るはず。

「天地人」の豪勢なファンファーレ、この魅力に抗することのできる人がどれくらいいますかね?

だからですね・・・・本気でNHKが日本のオケ文化というもののことを考えているのだったら、大河ドラマのテーマのスコア、「解放」すべきです。それくらい、NHKだったら出来るでしょう。

広上さんのお父さんがNHKに勤めていたということを知って驚いたのだが、それならなおさら広上さん、この絶好のマテリアル、あなたが率先してやっていただきたい。そして、今、あなたが手にしている「京響」という楽器、それをやるには、日本でこれ以上ないぴったりの名器だと思いますよ。

これを入り口として、邦人の作品を「私たちの音楽」として受容していくこともできるはずで・・・そういうアプローチこそ、「日本のクラシック音楽」のためには必要不可欠なんじゃないでしょうかねえ。

で、とりあえずは・・・・「信長」以降のテーマ曲、ぐすたふ君に配信してくださいませ、NHKさま。

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「不滅」は不滅・・・センチュリー定期

べたなタイトルやなあ、と自分でも思いますが・・・

大阪 ザ・シンフォニーホール
センチュリー第150回定期演奏会
小泉和裕指揮大阪センチュリー交響楽団
ピアノ独奏:若林顕
ベルリオーズ:序曲「リヤ王」
ラフマニノフ:パガニーニの主題による変奏曲
ニルセン:交響曲第4番「不滅」

実は今日の今日まで気がつかなかったが、今回が150回の記念演奏会。だからなんでしょう、意識して「不滅」を持ってきたのは。

もうコンサートゴーアー8年目となるぐすたふ君ですが、この曲を生で聴くのは初めて。大阪のみならず、これまで、東京のコンサートでも気をつけてみてきたのだけれど、この曲が演目で入っているのを見た記憶がない。よっぽどかからないんでしょう。

かからない理由としては、やはり日本でのニルセンの知名度のなさ、が一番なのだろうが、今日聴いて思ったのは、やはり演奏が難しい、ということもあるのだろうなあ、と思いました。

正直言って、この曲が聴ける、ということで何をおいても駆け付けたぐすたふくんとしては、どうしても演奏そのものより、この曲に関しての文章が多くなるのは仕方ない、と思ってくださいませ(笑)。

で、もっとも驚いたのは・・・・これまでCDで聴いて、そのマッシブな腹にこたえる音響美ゆえ、いかほどの巨大編成かと思いきや、ステージにはすっピンの3管編成。ペットも3本、ボーンも3本、ホルンなどたった4本!!チューバも1本だけ。木管に至っては、クラリネットはバスクラなしの3管、オーボエもアングレなしの3管!!ファゴットが3番のみコントラファゴット持ち替え、フルートもひとりピッコロ持ち替えだが、基本は3本のみ。しかも、ハープのなければ、ピアノもチェレスタもないし、ティンパニ以外の打楽器もなし!!

で、たったこれだけの編成であれだけの(で実際、今日のライブでもそれを実感したわけだが)サウンドを創り上げていたのか、と思えば思うほど、実はニルセンという作曲家がいかに優れたシンフォニストであったか、身にしみてわかりましたね。

だって、まさか私、この曲の打楽器がティンパニだけだなんて、想像もしてませんでしたもの。ま、冷静になってちゃんと聞けば、それ以外の音がしてないわけだからあたりまえなのだが、僕をしてそう思いこませる・錯覚するほど、この曲のあのダブルティンパニの演奏効果が絶大だ、ということなんです。逆に言えば、ティンパニをダブルにするだけで、ここまで効果的な音響を創り上げるニルセン、そのことだけで「天才」という言葉を送ってもいいんじゃないか、と。

今日の演奏、実は1楽章部分は今一つだったんですよね。どうもバランスが悪く、やはり弦がブラスに負けてしまってあまり聞こえてこないものだから、これがセンチュリーの限界か、と思って聴いていた、というのが正直。ところが、3楽章部分の悲歌のピン!!と張りつめた絶唱あたりから音楽はじわじわと高揚をはじめ(ヴァイオリン1とヴィオラ1と2本のチェロの変則カルテットで奏でられる響きの美しさ!!)、4楽章部分に突入したヴァイオリンの走句から始まるストリングサウンドの見事さ(ここらあたり、さすがスカンジナヴィアン・ストリングス。北欧の作曲家は、弦の扱いが巧みだなあ。実際にホールで聴くと、本当によく「鳴る」!!)、そして何度も書いている神の雷のごとくのダブルティンパニ、それをはねのけて地の底から湧きあがるブラスサウンド、それを根元からがっしりと固めて離さないストリングスの高揚、それが天に向かって巨大な植物の芽のようなものを吹きあげていく、その様は実に圧巻。

しかしまあ、この4楽章部分の音楽の絡み方は尋常なテンションではなく、演奏するのはさぞかし大変だろうなあ、と・・・・。多分、何回か怪しいところはあったと思うぞ。でもまあ、よくここまで練習されましたねえ、とは正直な感想であります。センチュリーをもってしてもここまで難渋するこの曲、やはり演奏会にかけるとなると気合がいるんでしょうなあ。

もう一回どこかで聴いてみたいもんです。やっぱり、いい曲ですよ、これ。

あとの曲は・・・ベルリオーズは良かったです。小泉さん、ベルリオーズを振らせると一級ですな。何がいいって、ベルリオーズの曲のはったりやメリハリが、小泉ダイナミズムにぴったりはまるんですって。これが一番。

ラフマニノフは、肩すかし。だって、あの第18変奏(だったっけ?)が、ぜんぜん泣けない!!!!!これだけで、ペケ、です。これが小泉ダイナミズムのあかんとこなんですよねえ。ソロピアノも、今一つ音色に幅がなく、うるさいばかりで音楽も開いていかない。ここからやで、といつもなら思うところで、眠気を催した、というのがすべてを語っておりまするな。

まあ、まとめて言えば、やっぱり「不滅」は不滅!!!です。はい。



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