不惑わくわく日記

大阪でコンサートをあさっています。

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最初のベートーヴェンにベー4を持ってくるのは、なにか理由があるのだろうか?その2

実は昨日の記事、タイトルを書いたときには実際に書かれることになった内容と違うことを考えていたので、こんなタイトルになったんですよね。で、読み返してみると、全然タイトルにマッチしない内容(笑)。でもまあ、僕の偽らざる気持ちは、ストレートにそこに書けてあるし、まあいいか。それで、そのままにしておいて、で改めて、このタイトルの内容について、書こうかと思った次第。

実は、大植さんが大フィルで最初に振ったベートーヴェンも4番。広上さんも最初のベートーヴェンが4番。これって、偶然、じゃないなあ、と思ったんですよ。なにか理由があるんだろう、と。

で、一体、大植さんも、広上さんも、どうして4番なのか。

この曲、実はぐすたふくん、大好きなんです。同世代の人なら分かってもらえるだろうけれど、この曲の名演、といえば、「クライバー・ミュンヘン」のORFEOのアレ、にとどめをさす。この演奏を聴いたときの衝撃、これは僕の音楽体験の中でも屈指のものでありますな。それ以来ですね、この曲が大好きになったのは。

この4番という曲、昨日の広上さんの演奏もそうだったけれど、「突進するアレグロ」と「永遠に連なる歌謡性」が絶妙な「即興性」のもとに奇跡のようなバランスで存在する、ベートーヴェンの交響曲中でも特異な、唯一無二の曲だと思うんですよね。極めて面白い曲。しかも、余計なアネクドートもなく、通俗名曲でもなく、聴衆の耳タコにもならず・・・・と、こういう意味で、ベト響のなかでは8番と双璧の存在と言っていいんじゃなかろうか。

こういうところが、指揮者にとって「おいしい」曲なんじゃないか、と勝手に想像してます。

も一つ邪推するなら・・・やっぱり、3・5・6・7・9を持ってこようとすると、かなり「構え」るし、1番・2番をもってくるのは「二の足を踏む」。8番は軽い分、メインに据えるにはちょっと、となると、必然的に4番に収まる、という面もあるのかしらん?

さらに想像すると・・・次の4/11の曲、予定していた「運命」から「田園」に変えたのは、4番とほとんど間が空かない、ということに気がついて、あらためて考え直した結果なのかもしれないですねえ。

さあ、ここら辺の想像、どれくらいあたっているのかしらん?

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最初のベートーヴェンにベー4を持ってくるのは、なにか理由があるのだろうか?・・・京響定期

結果としては、これが京響か?と耳を疑うような演奏。

京都 京都コンサートホール
京響第533回定期演奏会
広上淳一指揮 京都市交響楽団
ホルン独奏 ラデク・バボラーク
プッチーニ:交響的奇想曲
R・シュトラウス:ホルン協奏曲第1番変ホ長調
シューマン:4本のホルンのためのコンチェルトシュトゥック作品86
ベートーヴェン:交響曲第4番変ロ長調作品60

バボラーク氏の演奏を聴くのはこれが2回目。前も、シューマンの作品を聴いているが、今日は前回を上回る出来。というよりも、この4本のホルンの曲、3番4番のホルンがバボラーク氏と同じレヴェルで付いてこれるかどうか、というのが問題で、前回はセンチュリー、その時はううむと思わされたものの、今回は、さすがは京響ホルンセクション、と唸らされましたね。

まあ、それはそうとして、バボラーク氏のホルンについては、シュトラウスも含め、何も言うことはありません。完璧、以外の言葉はない。この音、この演奏にただただ身を浸すことの至福の時間。これだけで、今日のお代のおつりがきますな。

それはそうとして、ベートーヴェンが実は特筆すべきできだったことを、強調して書いておきたい。

実に見事なものであったので、実はあまり書くことは無いんです。ただ、オケでシンフォニーを演奏する、ということにおいて、バスがしっかりと鳴ること、バスでリズムとテンポをしっかりと決めること、このことがいかに大事か。そしてそれが為された時、その上にのっかる、たとえばヴァイオリンセクションがどれほど楽か、それほど力まなくても十分に鳴るものか、ということ。そういうことが総体的に為されたときに、初めてベートーヴェンのシンフォニーがホールに豊かに響くものなのだ、ということ・・・・そのことを、これほどまでに(もともと、ベートーヴェンを演奏することが下手くそ極まりなかった京響で為されるがゆえによけいに)、わからされる演奏もないのではないか、と思った次第。

テンポは決して今はやりの快速系ではないものの、十分な推進力を感じさせるドライブ感、やわらかで青緑系の色をたたえるさわやかなストリングサウンド、安定感と華やかな色合いを添える木管群に、非常に心地の良い時間を過ごさせてもらいました。

そして、アンコールのバルトークのルーマニア舞曲抜粋、一転してモダンで先鋭的な、京響ならではのストリングス、これも良かった。

満員御礼の会場、広上淳一の笑顔、そして彼の「みなさんの支援をいただき、来年度もまた・・・」の言葉。ああ、ここ京都でも、この交響楽をみんなで、ということなんですよね。

広上さん、あなたが来てくれて、本当に良かった・・・・ぐすたふくんも、あなたの音を聴きに来させてください。

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これこそ、ブルックナー・・・大フィル定期

殿下、大きくなられましたねえ。

大阪 ザ・シンフォニーホール
大フィル第 回定期演奏会
下野竜也指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
ヴァイオリン独奏 ルノー・カプソン
ベートーヴェン:序曲「アテネの廃墟」
モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第3番ト長調
ブルックナー:交響曲第1番ハ短調(ウィーン稿)

一見しただけで、下野殿下やなあ、と思わされる、意図や意志のはっきりした理知的かつ秀逸なプログラム。キーワードは、「ウィーン」ですね。ほんとは、モーツァルトの協奏曲は5番の予定で、これだと(プログラム・ノートにも書いてあったけれど)「トルコ」というキーワードもそこに加わったんだが、なんとソリストの要望で変更とか。

京響でも、モーツァルトのピアノ協奏曲の突然の変更があったことがあるが、このときは「ソリストがさらってくる曲を間違えた」という説明がありました。さて、今回がどういう理由があるのかはわかりませぬが、まあ、「準備が間に合わなかった」んじゃなかろうか。そう決めつけるわけでもないが、こういう「突然の曲目変更」、芸術家として誠意のある対応かどうか、議論のあるところかもしれない。ただ、今回のソリスト、一切のアンコールもせず、カーテンコールもややおざなり、とまあちょっと印象は悪く、そうするとこの曲目変更についても、あまり好意的には受け取れない、といったところです。

演奏の出来は、3楽章がそれなりに良くって(短調の取り回しが巧みなんですよ)複雑な気持ながら、マル、を上げざるをえません。ただ、全体にこのソリスト、モーツァルトを弾くのにここまでの太い音が必要か?、というような弾きぶり。加えて、やや濃いめアゴーギグで、「端正」「ロココ的」という言葉からはかなり遠い。こういうところにも、この人の姿勢が透けて見えて、あまり好きにはなれそうもありませんね。以前にもどこかで聴いているはずだが、そのときの感想をまた時間があるときにでも引っ張り出して見直してみよう、と思ってます。

さて、やはりベートーヴェンとブルックナーは下野殿下の独壇場。

ベートーヴェン、ほんの10分足らずの小さな曲なのだが、8型から10型の小ぶりのオーケストラを中央にギュッと寄せて、実に「引き締まった」音像を聴かせる。これぞベートーヴェン、という言葉が思わず口を衝く。ただ、ほんとは殿下としてはもうちょっと早いテンポで押したかっただろうが、大フィルのアンサンブルの鈍くささそれを許さなかった、と思わせるところは無きにしも非ず。

そして、わざわざウィーン稿を選んだブル1は、3楽章と4楽章が秀逸。まとまりだとかサウンドの切れといった点では、3楽章が一番の聴きものだったと思うけれど、4楽章の音楽の歩みに下野殿下の成長・・・いや、成熟といったほうがいいかもしれない・・・をみた気がします。

ブル1のウィーン稿、今回ぐすたふ君初めて耳にしたのだが、4楽章においては、これまで耳になじんだリンツ稿における一気呵成に聴かせる突進性やエナジーが後退した分、後期ブルックナーに見られる濃厚な「ロマン性」・彼岸に通じる神秘性といったものが、他の楽章以上に流入してくる。下野君、これを実に「大きな」音楽に纏め上げていました。まさにそれは「巨匠」のそれ、と言っていい。以前にも書いているように、僕はチェリビダッケが振るブルックナーの中に、「巨大なもの」としか言いようのないものが圧倒的な存在感でこちらに迫ってくるのを感じるのだが、今日の下野君のブル1の中には、あきらかにチェリのそれに通じるものがあったように思います。

だから、演奏が終わった後、いつものように忙しくちょこまかと愛想を振りまく彼の姿に、あれほどの音楽を聴かせた後にそんなことせずとも・・・・と思ってしまいましたねえ。今や彼も不惑わくわく(満40歳なんですねえ)に達したわけだけど、彼の音楽はその実年齢よりもずっと先へと行っているように思う。熟成、という言葉がしっくりきます。だから、その音楽に見合うだけの、悠揚迫らざる巨匠然とした態度で居てもいいと思うんだけどなあ。まあ、でも、彼はそういうハッタリを利かせるには、あまりに誠実でシャイなのかもしれず、そこが魅力だったりもするわけで・・・・なかなか複雑ではありますね。

兵庫芸文ではブル7を振っているのに、あえて大フィルではブル0、ブル1と持ってくるあたりも、彼の人柄がにじみでてますもんね。頭が下がる人です、ほんと。

おそらくは、ブル2までしか彼は大フィルとはやらないでしょう、これからも当分の間。でも、大阪の聴衆は、きっと彼がブル5とブル8とブル9を振ってくれる日が来ることを信じて、楽しみに待っている・・・・少なくとも、僕はそうです。

殿下、またお会いする時まで、お元気で。

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初めての「クラシックバレエ」・・・グルジア・バレエ団日本公演

予想以上。

西宮 兵庫芸術文化センターKOBELCO大ホール
グルジア国立バレエ団 日本公演
「ジゼル」全二幕
ニーナ・アナニアシヴィリ(プリ・マドンナ)
アンドレイ・ウヴァーロフ(プリンシパル)
グルジア国立バレエ団(管弦楽:関西フィルハーモニー管弦楽団)

実は、ぐすたふくん、「クラシックバレエ」とやらを見に行くのは初めて。「バレエ」は、今を去ること何十年か前、ベジャールバレエの「春の祭典」見たさにフェスにまで、あまり気乗りのしないこすもす(よくまあ、付いてきてくれたもんだ)引き連れ見に行ったのが最初で最後。その時の「春祭」は噂に違わぬ衝撃的なものではあったが、ほかの演目がパッとしなかったのと、カラオケというのがどうも違和感があったし(やはり、「呼吸」がそこに無くなってしまうんですよ)、モダンバレエの極致のようなこのバレエ公演、ベジャールのホモセクシャルの匂いプンプンで、やはりプリマをその中心にいただく「クラシックバレエ」からは遠く離れたものだったです。

で、何がきっかけかわからないが、このごろりんりんがバレエに興味津々。それで、じゃあ、みんなで見に行くんなら、これ!!と白羽の矢をたてたのが、「ジゼル」。この選択は間違っていなかったですね。

これぞ「クラシックバレエ」の様式美、いままでいろんなところで見聞きしてた、舞台上に見事なまでに展開する配置と移動の美しさ。でも、良く勉強すれば、もっと面白さがわかったかも、と思いました。バレエをやってる人には自明のことでも、普段見ていない人にはわからない約束事がどうもたくさんあるようで(パド・ドゥ、や、パド・シスなど、ああなって、こうなって・・・・お決まりの舞踏の展開がどうもあるようです)、そういうところを知っていると、まあ要するに、よ!待ってました!上州屋!!みたいな楽しみもあるのかなあ、と。

「ジゼル」という作品も、今回当然のことながら初めて目にしたが、筋立てなんかはっきり言ってどうでもよくって、その中心点は2幕を貫く幻想的な舞、この作品の魅力はそこに尽きる。蒼い背景の上に、白く神聖な女性的なるものが、黒く猛々しい男性なるものを浄化に導くという、抽象的な聖劇といってもよいこの第2幕、なんて美しいんだろう!!それを成立させているのは、舞そのものがもつ「根源的な力」、ですね。この2幕、1幕と時間的にはほぼ一緒なのだが、幕が下りた時、え?これで終わり?短かったなあ、と思いましたもん。いろいろと背景の説明に時間を費やす1幕の方が、いろいろと手を代え品を変えの踊りが満載で登場人物もずっと多いのに、かなり退屈だったのとはえらい違いです。

でも、グルジアバレエ、寡聞にして知らなかったが、ロシア文化圏(こういうと、グルジアに失礼かしら?)のバレエ文化の層の厚さと歴史の重み、それを十二分に思い知らされる、見事なものでありましたね。こういうのを見ると、文化、というものが、人間の尊厳や存在意義に直接繋がる侵しがたいものであること、そしてまた、それを連綿と受け継ぐ人間の営みがいかに尊いものか、ということを、いやおうなしに分からせられてしまう気がする。

パンフレットをみると、グルジア、という国のおかれた状況、そして、プリマのアナニアシヴィリのおかれた立場、というものが、安穏としたものではないことがひしひしとわかる。それでも彼らは、このレヴェルのバレエを達成しているわけで、そのことには本当に頭が下がる思いがします。

でも、純粋にバレエ、としても、りんりんが、「うわああ・・ハート」だったのは、本当にうれしい。

また、みんなでバレエ、見に行こうね。

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