不惑わくわく日記

大阪でコンサートをあさっています。

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別れではない、これは「襲名披露」だ・・・・大植英次スペシャルコンサート

大植英次、大阪の聴衆は、あなたを「大阪のマエストロ」として、これからも語り継ぎ、忘れることはない。

大阪 ザ・シンフォニーホール
大植英次スペシャルコンサート
大植英次指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
ブルックナー:交響曲第8番ハ短調(ハース版)

大植・大フィルの3回目のブル8にして、最高・最大の音楽。

これまでの大植さんのブル8は、色々とドラマチックな仕掛けを施すのだが、それは確かに美しい瞬間ももたらすし、腹に堪えるサウンドにも事欠かないけれど、結果としては逆に音楽を小さくしてしまって、後期ブルックナーの曲に宿る「巨大なもの」がそこに出現しないもどかしさがあったように思う。しかし、最後の演奏で、大植英次はそこを突き抜けたところに自らを置くに至った、そう言っていいのではないかしら。

ブルックナー指揮者、と言われるに相応しい、大きな大きな音楽が聴けました。

今日の音楽の大きさを仰ぎ見ながら、やはり朝比奈御大の大きな音楽の峰をそのかなたに見ていた聴衆は、決して少なくは無いだろう。そして、見上げればそこには、ブル9の時と同じように、スタンバイされ、ライトアップされたオルガンがある。そこにだれが居るか、今日は、誰もがわかっていたのだろう、と思う。

今日の3楽章、打楽器がカタストロフを奏するクライマックスに向けて長い長い階梯を昇る音楽が、ハース版に残されたフラグメントの所で一度身をよじり、そのあとでむせび泣くように血の涙を流して神に向かって救いを求める、そのストリングスの言語を絶した美しさ。それがさらに高みへと到達するまでの歩みの、時間を超越した巨大さ。そのあとに訪れる慰撫の、その肌触りの無限の優しさ。

4楽章、展開部が終わった瞬間に突然屹立する音楽の巨人、それに左右から腰を浮かせて体当たりをくらわせる長原幸太と佐久間聡の雄姿。この姿も、今日が見おさめ。

雷神の一撃を、迷いなく打ち込む堀内吉昌のティンパニの鮮烈さ。漆黒の闇と救いの光を共に描き分ける、藤原雄一率いるワグナーチューバ部隊の響きの深さ・・・・楽員一人ひとり、パートひとつひとつに、あらん限りの言葉でもって語ろうとしても、それでも足りない様な気がする。

終演後、長い長いカーテンコールの末、事務方から手渡された花束から薔薇を一輪抜き取り、大植さんがそれを掲げて指揮台に上がった瞬間・・・・僕を含めて、そこに居た全ての聴衆が、一斉に立ち上がった!!まるで、それが合図でもあったかのように。誰が何を言ったわけでも、促したわけでもないのに!

それは、「大植英次」が「大阪のマエストロ」を襲名した、歴史的な瞬間だったように思う。

大阪の聴衆の拍手は温かく、そしてみんなが共有する空気は慈愛に満ちていて・・・・・この時間を共有出来ることが何よりの財産、そして音楽の奇跡。僕がここに居ることができる、そのなんという幸福。

大植英次、ありがとう。大フィル、ありがとう。

そして、ここに居た大阪の聴衆のみなさん、

いや、僕と一緒に、大植・大フィルの音楽を聴いてきた全ての聴衆のみなさん

本当に、9年間、ありがとうございました。

今日、この記事を持って、不惑わくわく、お開きです。

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オケコンを前座に使うなんて、なんてオケだ・・・京響定期

曲の順番が逆だろう、と思ってたら、これで良かった、というところがまずびっくり。

京都 京都コンサートホール
京響第555回定期演奏会
広上淳一指揮 京都市交響楽団
バルトーク:管弦楽のための協奏曲
ブラームス(シェーンベルク編):ピアノ四重奏曲第1番ト短調(管弦楽版)

今回も満員御礼、大入り袋が出たらしいです(とプレトークで言っておられました)。凄いなあ、センチュリーとは全く逆。いけいけの上り調子のオケと、逆境下り坂のオケと、その違いのなんと唖然とすることか。そのどちらにも身を置いているぐすたふくんとしては、なんとも複雑な思いですが。

で、大曲二曲プロの今回、このラインアップで満員になる、というところがまず凄い。昔だったら、(少なくとも僕がここの定期に通い始めた2004年・2005年ごろだったら)、まずそんなことあり得ない。がらがらですよ、きっと。これが、上り調子の証。演奏が上り調子、客が入る、曲が冒険できる、音楽的にさらに充実する、の好循環。一方、下り調子の方は、良い演奏をしているのに客が入らない、集客名曲路線に走る、マンネリズムに陥る、の悪循環。なんかなあ・・・

まあ、今日の記事なんやから、京響の好調さを素直に喜ぶべきでしょう。広上さんも、気分よくさらにぶいぶい言わせて頂きたいものだし、いまや実力関西一とまで言われ、市長もバックアップ万全、極めていい感じなんだから、長期政権を見据えて、今日以上に挑戦的なプログラミングを組んでもらいたいものでありまする。

ただ、正直なことを言わせてもらえば、バルトークのオケコンを聴いているときには、ちょっと不満でした。というのも・・・・とにかく、この曲での京響ストリングセクションの響きが貧弱極まりない。曲のせいなのか、とも思ったが、ぐすたふくん、この曲、ライブで何度も聴いていて、それこそセンチュリーでも聴いているんですよ。その時の記憶と照らし合わせ、12型のセンチュリーがあそこまでの音を出していたというのに、京響は16型のくせして(プログラムで見る限りは15-13-12-8-7の人数をカウントしましたが)この程度の音か、とげっそりしていたほど。聴きながら、「今日の記事は、ああ、たとえ将来大阪のオケが絶滅したとしても、僕はきっとここの弦の音に満足することは無く、その時には大阪の弦の響きをただただ懐かしみながらこの場に身を置くことになるのかもしれない。それは、どんなにいい女に巡り合ったとしても、過去に最も愛した女性のことを決して忘れられず、過去の女の温もりを反芻しつつ今の女と寝ている、そんな男の心に近いのかもしれない、とでも書くことになるのかな」と思ってたんですよね(なんちゅう言い方や(^^;;))

ところが、後半のブラームス/シェーンベルクがオケコンを上回る充実した響きと熱い演奏で・・・・こうして見ると、オケコンは、はっきり「前座」だった、ということですよね。まあ、こんなことができるなんて、流石は今の京響、だわ。

ぐすたふくん、このブラームス/シェーンベルクの曲、今回が初めてだったのだけれど、ブラームスの曲でもなければ、シェーンベルクの曲でもない、不思議な存在感をもった曲。旋律はブラームスのそれで聴きなじんだ魅力的なもの、その一方で響きがまた豊潤に鳴る耳に心地よい魅力的なもの、というそれこそ「良いとこどり」。「オーケストラを聴く」という楽しみを存分に味わう事ができる、という意味で、極めて優れた良い作品だと思いました。しかも、打楽器が盛大に活躍する4楽章の演奏効果がまた絶大で、「終わりよければすべてよし」のコンサートピースとして言うことが無い。実際、京響の演奏もこの4楽章、爽快かつゴージャスに聴かせ、終演後にはそれこそブラボーの嵐。ぐすたふくん、スタンディングしてもいい、と思いましたもん。でも、前から7列目だったので流石に恥ずかしくてやめましたけど(笑)。

この曲の旨みを教えてもらった今日の京都の聴衆は、幸せだと思います。

でも、オケコンを凌駕する演奏にこの曲を仕上げてくるあたり、やはり広上・京響、恐るべし、と素直に脱帽しておきましょう。ぐすたふくん、来季もマチネで続けますからよろしく、と書きたいところですが・・・・広上さん、マチネは一回だけとはあまりに酷い!!

仕方が無いなあ・・・広上さんの金曜の2回(7月と1月!!)は、大阪からはるばる通いましょうかねえ・・・

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小泉ダイナミズム、それを誉め言葉として今日は贈りたい・・・・センチュリー定期

立派。

大阪 ザ・シンフォニーホール
日本センチュリー交響楽団第169回定期演奏会
小泉和裕指揮 日本センチュリー交響楽団
ピアノ独奏 小菅優
シューマン:ピアノ協奏曲イ長調作品54
(アンコール:シューマン/リスト「献呈」)
ブルックナー:交響曲第2番ハ短調

終演後、初めて定期会員席の一番端のおじさんと二人(僕は反対の端)、スタンディングで拍手をしました。そのとき二人交わした言葉が「いやあ、この人数でここまでの音が鳴るとは!!」

これまで、ぐすたふくん、小泉ダイナミズム、という言葉を、どちらかというと否定的な響きで使うことが多かったかもしれないけれど、今日のブルックナーの演奏に対しては、最大級のほめ言葉としてこの言葉を使いたい。

センチュリーに小泉さんがやってきて(実は大植さんが大フィルに来たのと同じ2003年だったんですね、全然意識してなかったけれど)、センチュリーには不似合いにしか思えないダイナミズムを振りまわし、それこそ身の丈にあわない大曲をぶいぶい言わせてやり続けた。そのことを僕が時に苦々しく思っていたのは、この日記を読んできた人ならみんなご存じの通り。

でもまあ、それもここまでやり通したら、立派です。ここまでの演奏を聴かせられては、何も言えません。参りました、としか言いようがない。何物も、貫き通す、ということの重みを凌駕するものなし。

この演奏をして、締ったプロポーションから重い重い球を繰り出すプロ野球のエース、に例えるのにやぶさかではない。実に一級のブルックナーです。

特に1楽章と2楽章が秀逸。1楽章は早めのテンポで、それこそインバル・フランクフルトを彷彿とさせるような熱いリズム感。久しぶりに、背中が熱くなりました。そして、一転、二連・三連のリズムが複雑に錯綜し絡み合い、音楽が無重力空間に浮遊するかのような時間を作りだす、二楽章の主題再現前のクライマックスの美しさ。まるでタルコフスキーの空中浮揚の映像を見ているかのようで・・・小泉さんの棒が、こんな宗教的な音楽と時間を紡ぎ出してくるとは。

3楽章も、びしっと締った格好のいいもの。4楽章はまたこれ、滅茶苦茶難しいアンサンブル(今日は改めて、この曲が難曲であることを再認識しました)。これをしっかり決めてくるあたりは、流石はセンチュリー。センチュリーだからこそ、ここまでクリアに音が聴こえてくるんやなあ、と思いましたねえ。やっぱり上手いオケだ、このオケは。

実は、客の入りは良くは無かったんです。正直なところ、6割くらいかなあ。だから、僕の定期会員席の列は、僕とそのおじさんともう一人おばさんだけ。僕とおじさんの間は、3席とも空席だったんですよ。だから、最初に書いたみたいなことになったわけ。

そう言っている僕も、今回でこの席、最後になるんだよなあ・・・・ちょっと寂しくなりました、自分で決めたこととは言え、ね。

でも、ただただ、立派、という言葉を贈りたいです。僕が聴き続けたセンチュリー、よくぞここまでの演奏を、と。定期会員として臨む最後の定期演奏会で、この演奏を聴かせてもらったこと、本当に感謝します。

さようなら。そして、ありがとう。

追記:
シューマンも実は良かったです。

ホントのこと言えば、ぐすたふくん、小菅譲はあまり好きじゃない。がんがん弾くばかりで、どれを聴いてもみんなベートーヴェンに聴こえてしまうような気がして、これまでも散々に書いてきたと思います。1楽章と2楽章については、やっぱりこの人はこんなかんじなんやなあ、と。もうちょっとシューマンの陰影というか、陰りというか、そういうものが出てこない。極道ぐすたふくん、まあ小泉ダイナミズムとは丁度いい組み合わせなんかなあ、なんて(不遜にも)思ってたんですけど・・・ところがところが、3楽章が何とも小気味のいい秀演。花が咲き乱れるが如くの若さと香りあふれるもので、この魅力、抗することは不可能、でしたね。完全にノックアウト、でした。

そのあとに弾かれた「献呈」の歌の素晴らしさ・・・なかなか、泣かせますねえ。

ちょっと、小菅譲、見直しました。また、次の機会、楽しみに待ちます(^^)

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渋いけど・・・大フィル定期

こういう演奏会が、粛々と、そして連綿と為されていくことが、本当に成熟した都市、というものなのかもしれない。

大阪 ザ・シンフォニーホール
大フィル第456回定期演奏会
大山平一郎指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
ピアノ独奏 野平一郎
ウェーバー:歌劇 「オベロン」 序曲
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 第4番 ト長調 作品58
シューマン:交響曲 第3番 変ホ長調 「ライン」 作品97

大山さんの指揮ぶりを見るたびに、この指揮のどこからここまでの音が紡がれてくるのだろう、と正直思ってしまいます。

今日の演奏会で言うなら、ウェーバーとシューマンでそれが顕著。この人の指揮でドイツ物を聴くと、オーケストラというものは、やはり弦の響きがすべてだ、と思わされてしまう。そして、それは、実に周到に細部に施された細やかな気配り、そして絶妙の塩梅で配されたアゴーギグによるもの、であることはあきらか。

ぐすたふくん、今日はただただ、大フィルの弦の響きの美しさ、その表現力に魅了された、と言っていいです。それを引き出してくる大山平一郎の魔術、それがどの辺にあるのか、その秘密、機会があるならば、リハーサルから接してみたいものでありまする。

ただその一方で、4番のコンチェルトにおける野平さんのピアニズムには、残念ながらぐすたふくんはがっかりした、という言葉を送らざるを得ないです。そりゃ、圧倒的なヴィルトゥオジシティや華やかな演奏効果は望まないけれど、何とも中途半端な独り言のようなもごもごしたピアノで、聴いていて楽しいものではなかった。それをして、孤高のピアニズムとして讃える人がいたとしても反対する気持ちは無いけれど、ちょっとね、というのが正直なところです。

渋い演奏会、でも満足すべき演奏会、でした。大山平一郎、というマエストロに拍手。

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感銘深い演奏・・・聖トーマス教会合唱団&ゲヴァントハウス管弦楽団演奏会

生まれて初めての、マタイの演奏会。

大阪 ザ・シンフォニーホール
聖トーマス教会合唱団創立800周年記念公演
ゲオルグ・クリストフ・ピラー指揮
聖トーマス教会合唱団&ゲヴァントハウス管弦楽団
ウーテ・ゼルビッヒ(ソプラノ) シュテファン・カーレ(アルト)
マルティン・ペッツォルト(テノール:福音史家&ソロ)
マティアス・ヴァイヒェルト(バス)
ゴットホルト・シュヴァルツ(バス)
J・S・バッハ:マタイ受難曲BWV244(全曲)

このごろアクシデントには慣れっこになってしまって、半ばあきらめ気味なのだけれど、今日も演奏者降板のお知らせから始まって、いきなりテンションダウン。テノールソロをやるはずだった、クリストフ・ゲンツ氏が体調不良で参加見合わせとのこと。「演奏参加見合わせ」ということは、来日はしておられる、ということなのかな、と思い直し、それなら原発がらみではなかろうとちょっと気持ちを取り直したのだが・・・・毎回こんな気持ちにさせられて、現実を突きつけられて、いささかげんなり。でも、聖トーマス合唱団の少年たちがちゃんと来てくれたという事実には変わりはないし、ゲンツ氏の降板が仮に原発のせいであったとしても、他のソリストはちゃんと来日してくれている、と言う事実にも変わりはない。そのことには、素直に感謝しなければならない、と思います。まだ、日本が見捨てられたわけではないと。

で、それでなくても全編歌いっぱなしで大変な福音史家のペッツォルト氏、さらにアリアまで歌わなければならなくて、これがやはり大変。明らかに、アリアの所は練習不足がわかってしまうのだけれど、これはもう仕方が無いですよねえ。ただただ、ねぎらいの拍手をお送りしたいです。

ソリストでは、やはりアルトを担当したカーレ氏が飛びぬけて良かった(男性!こういうのを、カウンターテナー、って言うんだろうか?初演時は、ソプラノも男性が担当したんだろうなあ)。かの有名な、第2部のアリア、「憐れみたまえ、わが神よ、この涙のゆえに」のなんとも透明で、遠い遠いところまで突き抜けていくような哀愁の、切々と胸を打つことといったらないです。また、この人、合唱にも参加していて、合唱団とソロ席の間を何回も往復していたのにも驚きました。ソリストの中では最も若く、聖トーマス合唱団出身とのことで、それこそ、指揮者でトーマス・カントールでもあるビラー氏とともに、きっと先頭にたって引っ張ってこられたんでしょうねえ。

このカーレ氏のアリアに、バスのアリアを挟んで拮抗する、もう一つの素晴らしいアリア、「愛ゆえに」の、それこそ涙なくして聴けない、切々たるソプラノも良かった。第二部は、この二つのアリアが絶品ですね。

そして、第2部と言えば、ここで3回繰り返されるパウル・ゲルハルトに起源をもつ受難コラールの美しさ。この3回それぞれを、激情や怒り、やりきれなさや諦念、そして浄化された祈り、という風に、見事に表現しわける、感動的な合唱。この劇的表現、素晴らしい、の一言です。バッハがこれほどまでにドラマティックだということを、実感として感じられた、忘れがたい時間だったです。

そして、徹底的に絶望的なドラマを突き抜けた先に、いつの間にか仄かな救いの灯りがともり、それが「わたしのイエスよ、おやすみなさい」と繰り返されるうちゆっくりと音楽全体に広がって、最後の「我ら涙してひざまづき」の合唱に於いて、怒りも苦痛も悲嘆も哀しみも超えた、極めてニュートラルな地平に到達する時間を感じた時、ああ、これがマタイというものなのか、となんとなくこの曲を初めて理解できたような気になりました。これが、バッハ体験、というものなのかなあ。

マタイという曲、CDで聴いているといつもピンと来なくて、途中で寝てばかりなのだけれど、初めてこれはやはり評判どうりの凄い曲なのかもしれない、と思ったのは、NHK・BSでやっていたライブ録画(どこの演奏だったかなあ、ペーター・シュライヤーがエヴァンげリストをやっていたはず)を見たとき。この時は、ただただ、そのどこまでも沈潜していく悲劇性に激しく心揺さぶられたのだが、今日はむしろ希望や救いが感じられて、そこが感銘深かった、と思います。

やはりこの曲はライブで聴くものなんやなあ、と思いました。こうやって、マタイ体験を積み重ねていくことが大切なんかなあ、と。また次回は、違うものが感じられるかもしれないなあ。

今日の経験を反芻しながら、またCDを聴いてみよう、と思います。

はるばるこんな日本にまで感動を持ってきてくれた聖トーマス合唱団の若者たち、本当に有難う。最大限の賛辞を、ぐすたふくんは送りたいです。

陳腐で恥ずかしいけど・・・・心から、Danke Schoen, und Auf Wieder sehen !!

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ストラヴィンスキーのヴァイオリン協がこんな曲だったとは・・・京響定期

どれをとっても素晴らしい演奏だったけれど、とりわけヴァイオリンが印象的。

京都 京都コンサートホール
京響第554回定期演奏会
井上道義指揮 京都市交響楽団
ヴァイオリン独奏 郷古廉
ストラヴィンスキー:ハ調の交響曲
ストラヴィンスキー:ヴァイオリン協奏曲二調
ストラヴィンスキー:3楽章の交響曲

オール・ストラヴィンスキーという挑戦的なプログラム。プレ・トークで道義さん、「今はこんなプログラムでもお客さんが一杯になるようになったので、こんな曲やらしてもらってます。有難うございます」とのたまっておられましたが(そんなこと仰らずとも、とも思いましたが)、いえいえ、「京響で」「こんなプログラムだからこそ」わざわざやってくる聴衆が居るんですよ、僕のように。

少なくともぐすたふくんにとっては、今シーズンで最も期待に胸膨らませて臨んだ演奏会。そしてその期待に違わぬ演奏。さすがは、今の京響、です。

最初の「ハ調の交響曲」からして、京響サウンド全開。鋭角的でクリアなサウンドを聴かせ、この「20世紀風バロック組曲」、こんなに面白い曲だったっけ、と思いながら聴いてました。ハ調という調性から演繹される最大限の明るさ、それそのものを指向したエンターテイメント作品だったんだ、ということを初めて感じられたように思いまする。正直、いつもCDで聴いてる分には退屈で面白くなくって、今日も実は3曲の中では最も期待してなかったんだけれどなあ。やはり、演奏がそれだけ良かった、ってことなんでしょう。

そして、メインの「3楽章の交響曲」はもう、申し分のないゴージャスなもの。これぞストラヴィンスキーというような変拍子のリズム細胞で構成されたこの難曲、それを一切の無駄な演出を排し、その幾何学的美しさを一直線に現出させた見事なまでにカッコイイ指揮ぶり、さすがは井上道義、です。で、実際に鳴る音がそこでもたもたしてたらどうしようもないわけで、それをきっちり決めた京響もエライ。この曲、ぐすたふくん大好きで大好きで・・・・ライブでこの曲を聴ける愉悦、その幸せ、ただただ満足でした。最後の一音を振り終わった瞬間、道義さん客席をどや顔で振り返ったけど、まあそれに値する出来。まさに、降参、です。

で、ここまでで一旦文章を切ります。京響のこと、道義さんのこと、そのことは充分に書きたかったから、ここまで書きました。でも、今日の演奏会の一番は、僕にとってはソリストなんです。その気持ちを前面に出してしまうと、せっかくの二つのシンフォニーのことがおざなりになってしまうような気がして・・・・それでは、あんまりだと思ったんですよね。だから、まずひとまず文章を纏めよう、と思ったんです。

改めて、ヴァイオリン協奏曲のことを書きます。

申し訳ないけれど、今日の二曲目のコンチェルトは、京響は添え物、だったです。確かに、軽妙・洒脱な色どりを十二分に添えていたという点で、京響の演奏にも魅力は充分以上にあったとは思います。ストラヴィンスキーのこの曲、本当はそういう曲、だと思うんです。言っちゃ悪いが、それほどの深みのない、演奏効果を指向した、娯楽的作品。ヴァイオリン協奏曲っていうのは、そういうもんでっしゃろ?、これでどないだす? てな態度で書かれた作品。僕はそう思っていたから、この曲はあまり好きじゃなかった。前に諏訪内さんのソロで聴いたときも、熱演する諏訪内さんと、実際に出てくる音や曲の有り様とのギャップに違和感ばかりが先に立ち、決して愉しめなかったし、これといって感じるところもなかった。なんでこんな曲やるんだろう、とも思ったことを思い出す(前の記事:http://www.geocities.jp/ronronrinrin/2004concertreview.html#040528;奇しくも、前回の大植さんの「春の祭典」の次の大フィル定期がこの曲!!)

ところが・・・思わず聴いている途中で、ぐすたふくん、ソリストのプロフィールを確かめるために、プログラムを開き直しました。そうせずにはいられなかった・・・・1993年12月生まれ・・・なんとまだ18歳になったばかり!!

これから僕が書くことは、この若いソリストにとってはお笑い草かもしれない。彼がもし、この文章を読んだなら、その眉目秀麗な顔に憐れみの表情を浮かべ、何も知らない馬鹿が馬鹿なことを書いている、と吐き捨てるかもしれない。

でも僕は、「厳粛」とでもいう他のない、その徹底的に厳しい演奏に・・・まるで、バッハの無伴奏を弾いているかのようなストラヴィンスキーのソロパートに・・・どうしようもなく引き込まれた。彼の、内へ内へと凝縮していくエナジーの紅く鈍い炎を凝視するうち、僕の耳の前景にはヴァイオリンの音が巨大な塊となって屹立し、オケの音は周辺やその背後に後退していく・・・・この曲って、こんな曲だったんだろうか?僕はとんでもない間違いをしていたのだろうか?僕は、この曲の何も聴けてはいなかったのか?

ただ確かなことは、このヴァイオリニストが、生まれついてのソリストだ、ということだ。それもただのソリストではない。往年のシゲティのような、孤高の高みにまで昇ろうとする、峻烈な激しさを秘めた魂。ここまでの若いヴァイオリニストが、しかも男性のヴァイオリニストが、日本に居たとは。

演奏が終わって、道義さんが言う「去年の3月、彼は宮城県多賀城に住んでまして・・・・電話をかけても繋がらない、繋がらない・・・・そんで、彼は12時間かけて金沢までやってきて・・・そして最初にしたことは・・・・1週間ぶりの風呂に入った!!・・・・生きてて良かったです!!」

彼は神に選ばれた子、なのでしょう。

黒川侑21歳、郷古廉18歳・・・・この二人、決して忘れますまい。

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ありがとう 大植英次・・・・大フィル定期

今日は、演奏も昨日に増して素晴らしかったけれど、それよりも、なによりも・・・・

大阪 ザ・シンフォニーホール
大フィル第455回定期演奏会(二日目)
大植英次指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」
ストラヴィンスキー:バレエ音楽「春の祭典」

昨日の「ハルサイ」より、さらに上を行くとは想像していなかった。何をおいても「いけにえの踊り」に止めを刺す。妖しい光彩を放つまでの、ぬめりに似た触感。これを、エロス、と呼ぶに躊躇はない。クライマックス前のゲネラル・パウゼ、そこでの大植さんの壮絶なる唸り声と、振り下ろされたタクトに跳ねあげられるように飛び上がる彼の体躯。それが何よりも、この演奏に籠められた尋常ならざるエナジーの証。

この部分でのストリングセクション、フロントローのテンションの高さも尋常ならざるもの。長原幸太・佐久間聡のヴァイオリン・ツートップの渾身のダウンボウ、それが生み出すサウンドの何と豊かな質感と量感であろうか。ここまでのストリングサウンドの上に、昨日よりもさらにパワーアップしたブラスが咆哮する時、ああこれこそ「ハルサイ」をライブで聴くことの至福・・・心からそう思う。

昨日は背景にしか過ぎなかったかの印象であった「田園」は、今日は充分に「ハルサイ」と対峙しうる一幅の絵。今日の演奏ならば、こう並べたとき、それこそ「聖と俗」「天国と地獄」というような古典的連祭壇画を連想するに困難はない。「田園」が実は、ああみえて「舞踊組曲」であることに気付くとき、「田園」と「ハルサイ」を並べることの妥当性、その美的俯瞰に策士大植の意図を汲むこと、可、とするにやぶさかではない。ただただ、昨日の「田園」、乗りが悪く、リズムの生命感に欠けていた、そのことがぐすたふ君をして、昨日の方が面白くないと思わしめた原因のように思う(たとえ、今日は4楽章から5楽章にかけてのブリッジ部分で、オーボエが落ちるという大事故があったにしても)。

いつもなら、この先に東京公演があって、そこにピークが持って行かれるのだろう、そう思ってしまうのだが、今日はそう思わない。今日がピークかもしれない。今日が、最高のパフォーマンスかもしれない。なぜなら・・・

終演後の温かい拍手、いつまでもいつまでも続く拍手・・・・大植さんが引っ込んでも、そして長原君が礼をしても、舞台上からみんな去ってもやまない拍手に、再び現れた大植さん。そのもとに、みんなが駆け寄る。そしてそれからの、長い長いスタンディングオベーション。大植さんは舞台から握手をし、客席に飛び降りて抱き合い、そして指揮台に口づけをする。ブラボーの掛け声、有難うの掛け声・・・そう、今日は大植さんの監督としての最後の定期演奏会だもの。

ありがとう、ありがとう。あなたが大阪にやってきてくれてから9年間、僕はずっとあなたについてきた。僕はあなたについてきて・・・・あなたと大フィルについて行こうと決めて、本当に良かった。こんなこと、もう多分、僕の一生の中、二度とないだろう。こんなに豊かな音楽的体験ができたこと、僕の一生の宝だと思います。

さようなら、偉大なる大阪のマエストロ、大フィル音楽監督、大植英次。

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田園を背景にハルサイが屹立する・・・・大フィル定期

「ハルサイ」のための演奏会、ですね、明らかに。

大阪 ザ・シンフォニーホール
大フィル第455回定期演奏会
大植英次指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」
ストラヴィンスキー:バレエ音楽「春の祭典」

明日も行くので簡単に・・・・

正直に言ってしまえば、今回のプログラムは「田園」は「ハルサイ」が後半に無かったなら、たんなる退屈な演奏以外の何物でもなかったんじゃないか、と思います。

いろいろ細かい表現や仕掛けを丹念に織り込んだ「田園」だったと思うけれど、いかんせん音楽が開いて行かないもどかしさに終始していて、せっかくの6楽章も今一つ法悦感に乏しく、聴いていてうーんと思ってしまうような演奏。

でも、大植さんというひとは、同じ曲を、違う文脈、違う風景に変えてしまう人。これは、何かあるな、と思っていたら、後半の「ハルサイ」を聴いて、なるほどと。

極端な話、「田園」は「ハルサイ」の合わせ鏡。もしくは、背景と前景。モナリザと、その背景。そういうことだったんじゃなかろうか。

「ハルサイ」は掛け値なし。変拍子のなかでフレージングを歌わせようとする大植イズムが生み出す、緊張感あふれる熱演。無機的、幾何学的な美を追求するよりも、むしろ、そこに情念のような濃厚な気を漂わせる、不思議な魅力に満ちていたように思います。

大フィルも、プロの仕事らしい、良く練れた演奏で応えていたが、第1部の「二つの対立する種族の遊戯」で大きな事故があったのは残念でした。

さて、明日は?

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いや、やっぱりハイドンがいい・・・・大フィル定期二日目

やっぱり、ハイドンが掛け値なし。

大阪 ザ・シンフォニーホール
大フィル第454回定期演奏会(二日目)
大植英次指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
ハイドン:交響曲第92番Hob.I92「オックスフォード」
ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」

大フィルのブログにもちゃんと書いてあるように、そしてプログラムに挟みこまれた大植さん自らのコメントにもあるように、このハイドン、配置が独特。基本は8-8-6-4-2の弦セクションなのだが、それが、左右に(8-0-3-2-1)と(0-8-3-2-1)のように配される。要するに、バックに通奏低音を従えた二つのヴァイオリン群が対峙する、と言った格好。その二群に挟まれるようにして中央に管楽器群が座す、といった塩梅で、実際に聴いていると、通奏低音にそれぞれが支えられた三声がアンサンブルしている、という構造が非常に明快に聴こえてくる。そのことが、非常に面白かったですね。

特に、それが効果的に分かったのは、4楽章の開始で、この部分、ファーストヴァイオリンとチェロだけで始まるのだが、このチェロが、オブリガートチェロ一丁ではじまるものだから、丁度左弦楽群から音楽が始まる、と言う格好になるんですよ。左弦楽器群→左弦楽器・管楽器群vs右弦楽器群→Tuttiと拡大していくのが目に見えてわかる、という具合。

帰ってきてスコアを確認したところ、ハイドンは最初から最後まで、一貫してチェロパートを、オブリガートチェロとチェロ・バスの二つに分けているのだけれど、大植さんはこのオブリガートチェロを、基本的にトップチェロ一丁にしていたみたいです。ところが、僕が持っているCDでこれをチェロ一丁でやらせているのは皆無。

そんなもので、この扱いが僕がこれまで聴いたことのない新鮮な響きを聴かせてくれるんですよ。それは例えば、一楽章の序奏で、柔らかなヴァイオリンとヴィオラの和声の雲の中、チェロがソロが朗々と対旋律を歌う美しさ、そういったところ。

大植さんのハイドン・サウンドのモダンさの表出は、これにとどまらず、3楽章のトリオでまるで地虫がじーーとうなるような音が聞こえたり(これは、一体だれが弾いてたんだろう?探してもわからなかったです)、4楽章でおならのようなホルンのゲシュトップが聴こえたり、といろいろ不意打ちのような音が飛び出してくる。これも面白かったなあ。

またテンポも絶妙で、突然のストップや、突然のテンポダウンなんかもそこかしこに仕掛けてくる。ここらへん、どこまで許されるか、という話もあるかもしれないけれど、ハイドンの音楽の基本はユーモアとウィットなんやから、曲の様式感が許容する範囲でいろいろやるのは、それこそハイドン自身も想定の範囲なんでしょう(帰ってきて、ラトル・ベルリンフィルの演奏をダウンロードして聴いたら、口あんぐり。こっちの方も凄いなあ、好き放題やってますねえ)。

こういう音楽の楽しいことと言ったらないです。これだけ楽しい演奏を聴かせてもらってるのに、なんでみんな演奏後ずのーーんなんやろ、と昨日書いたけど、今日はそこそこ笑顔がありました。拍手も、昨日はこれだけの演奏にこれはないやろ、と言う拍手だったが、今日は充分なレスポンス。よかったよかった。

でもって、英雄は、逆にもっといろいろとやって欲しいぐすたふ君にとってみれば、あたりまえの正攻法の演奏なもので、こんなもんか、てなもんで・・・・まあ、なんて不遜なクラオタなんでしょうねえ、私って(笑)。

でも、ボッセさんに捧げる演奏ですもん、それでいいんですよね、大植さん。



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意外に・・・大フィル定期

いや、正直なところ、です。

大阪 ザ・シンフォニーホール
大フィル第454回定期演奏会
大植英次指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
ハイドン:交響曲第92番Hob.I92「オックスフォード」
ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」

プログラムを見てびっくりしたのだが、大植さん、スコッチを本番で振ったことが無いらしい。そんなことがあるんやなあ。それに、エロイカにしても、たくさん聴いたように思っていたけれど、実は定期にエロイカが掛るのは21年ぶりだとか。帰ってきて調べると、確かに大植さんのエロイカは、ベートーヴェン連続演奏会のときと大阪クラシックの2回。少なくとも3回くらい聴いたように思っていたし、定期で一度聴いたみたいに思いこんでいたのだけれど・・・・まあ人間の記憶なんていい加減なもんでありまする。

エロイカについては、大植さんのいつものスタイル。一楽章は早め、二楽章はじっくり、三楽章はさっと済ませて、四楽章で大きく盛り上がって終わる、という、奇をてらうことのない正攻法のもので、なにわのストコフスキーを期待するところ無きにしも非ずだったぐすたふくんにとっては、ちょっと肩すかしだったかも。でも、レパートリー感満載、大フィル・サウンド満喫(良くも悪くも・・というあたり、ちょっと含みがありますが)の満足できる演奏ではありました。

で、意外、と書いたのはハイドンの方で、「意外にもとっても良かった」んです。ホント。

これも、こっちの勝手な思い込みなんだろうけど・・・この間のシューベルトの5番がぐすたふくんとしては今一つの演奏だったので、あまり期待していなかったんですよね、実のところ。それがまあ、きりっと締ったプロポーション、加えてユーモアもあり、それでいてチャーミング、なんとも魅力的な演奏で・・・・この演奏だったら、あと8回聴いても良いなあ、と思った次第。

実際、明日もう一度聴けることが本当に楽しみなんです。だから、いろいろなことはその時に。

でも、ハイドンの演奏の最中に大植さんがポケットから出していたカードのようなもの、あれは一体何だったんだろうなあ。それから、これだけの演奏だったのに、終わった後の楽員諸氏から醸し出される空気がなんともどよおおおんとしたものだったのは、一体なぜなんだろう?

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