不惑わくわく日記

大阪でコンサートをあさっています。

いや、やっぱりハイドンがいい・・・・大フィル定期二日目

やっぱり、ハイドンが掛け値なし。

大阪 ザ・シンフォニーホール
大フィル第454回定期演奏会(二日目)
大植英次指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
ハイドン:交響曲第92番Hob.I92「オックスフォード」
ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」

大フィルのブログにもちゃんと書いてあるように、そしてプログラムに挟みこまれた大植さん自らのコメントにもあるように、このハイドン、配置が独特。基本は8−8−6−4−2の弦セクションなのだが、それが、左右に(8−0−3−2−1)と(0−8−3−2−1)のように配される。要するに、バックに通奏低音を従えた二つのヴァイオリン群が対峙する、と言った格好。その二群に挟まれるようにして中央に管楽器群が座す、といった塩梅で、実際に聴いていると、通奏低音にそれぞれが支えられた三声がアンサンブルしている、という構造が非常に明快に聴こえてくる。そのことが、非常に面白かったですね。

特に、それが効果的に分かったのは、4楽章の開始で、この部分、ファーストヴァイオリンとチェロだけで始まるのだが、このチェロが、オブリガートチェロ一丁ではじまるものだから、丁度左弦楽群から音楽が始まる、と言う格好になるんですよ。左弦楽器群→左弦楽器・管楽器群vs右弦楽器群→Tuttiと拡大していくのが目に見えてわかる、という具合。

帰ってきてスコアを確認したところ、ハイドンは最初から最後まで、一貫してチェロパートを、オブリガートチェロとチェロ・バスの二つに分けているのだけれど、大植さんはこのオブリガートチェロを、基本的にトップチェロ一丁にしていたみたいです。ところが、僕が持っているCDでこれをチェロ一丁でやらせているのは皆無。

そんなもので、この扱いが僕がこれまで聴いたことのない新鮮な響きを聴かせてくれるんですよ。それは例えば、一楽章の序奏で、柔らかなヴァイオリンとヴィオラの和声の雲の中、チェロがソロが朗々と対旋律を歌う美しさ、そういったところ。

大植さんのハイドン・サウンドのモダンさの表出は、これにとどまらず、3楽章のトリオでまるで地虫がじーーとうなるような音が聞こえたり(これは、一体だれが弾いてたんだろう?探してもわからなかったです)、4楽章でおならのようなホルンのゲシュトップが聴こえたり、といろいろ不意打ちのような音が飛び出してくる。これも面白かったなあ。

またテンポも絶妙で、突然のストップや、突然のテンポダウンなんかもそこかしこに仕掛けてくる。ここらへん、どこまで許されるか、という話もあるかもしれないけれど、ハイドンの音楽の基本はユーモアとウィットなんやから、曲の様式感が許容する範囲でいろいろやるのは、それこそハイドン自身も想定の範囲なんでしょう(帰ってきて、ラトル・ベルリンフィルの演奏をダウンロードして聴いたら、口あんぐり。こっちの方も凄いなあ、好き放題やってますねえ)。

こういう音楽の楽しいことと言ったらないです。これだけ楽しい演奏を聴かせてもらってるのに、なんでみんな演奏後ずのーーんなんやろ、と昨日書いたけど、今日はそこそこ笑顔がありました。拍手も、昨日はこれだけの演奏にこれはないやろ、と言う拍手だったが、今日は充分なレスポンス。よかったよかった。

でもって、英雄は、逆にもっといろいろとやって欲しいぐすたふ君にとってみれば、あたりまえの正攻法の演奏なもので、こんなもんか、てなもんで・・・・まあ、なんて不遜なクラオタなんでしょうねえ、私って(笑)。

でも、ボッセさんに捧げる演奏ですもん、それでいいんですよね、大植さん。



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意外に・・・大フィル定期

いや、正直なところ、です。

大阪 ザ・シンフォニーホール
大フィル第454回定期演奏会
大植英次指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
ハイドン:交響曲第92番Hob.I92「オックスフォード」
ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」

プログラムを見てびっくりしたのだが、大植さん、スコッチを本番で振ったことが無いらしい。そんなことがあるんやなあ。それに、エロイカにしても、たくさん聴いたように思っていたけれど、実は定期にエロイカが掛るのは21年ぶりだとか。帰ってきて調べると、確かに大植さんのエロイカは、ベートーヴェン連続演奏会のときと大阪クラシックの2回。少なくとも3回くらい聴いたように思っていたし、定期で一度聴いたみたいに思いこんでいたのだけれど・・・・まあ人間の記憶なんていい加減なもんでありまする。

エロイカについては、大植さんのいつものスタイル。一楽章は早め、二楽章はじっくり、三楽章はさっと済ませて、四楽章で大きく盛り上がって終わる、という、奇をてらうことのない正攻法のもので、なにわのストコフスキーを期待するところ無きにしも非ずだったぐすたふくんにとっては、ちょっと肩すかしだったかも。でも、レパートリー感満載、大フィル・サウンド満喫(良くも悪くも・・というあたり、ちょっと含みがありますが)の満足できる演奏ではありました。

で、意外、と書いたのはハイドンの方で、「意外にもとっても良かった」んです。ホント。

これも、こっちの勝手な思い込みなんだろうけど・・・この間のシューベルトの5番がぐすたふくんとしては今一つの演奏だったので、あまり期待していなかったんですよね、実のところ。それがまあ、きりっと締ったプロポーション、加えてユーモアもあり、それでいてチャーミング、なんとも魅力的な演奏で・・・・この演奏だったら、あと8回聴いても良いなあ、と思った次第。

実際、明日もう一度聴けることが本当に楽しみなんです。だから、いろいろなことはその時に。

でも、ハイドンの演奏の最中に大植さんがポケットから出していたカードのようなもの、あれは一体何だったんだろうなあ。それから、これだけの演奏だったのに、終わった後の楽員諸氏から醸し出される空気がなんともどよおおおんとしたものだったのは、一体なぜなんだろう?

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長原幸太退団!!

多分そうなるだろう、とは思っていたものの、実際にそうなってみるとやはりショックですね。

長原君は大植さんの一本釣りで大フィルに来たわけだし、大植さんが辞めると同時に辞めよう、ときっと決めていたんだろう、と思います。

あのブラ4の衝撃、大阪クラシックでの獅子奮迅の活躍、この間の第9での中腰での奮闘など、目を閉じれば、今今のように思い出します。

大植さんと長原君と過ごしたこの年月、僕の人生の中でこれほど充実し濃密にひとつのオケと過ごした時間はなかったです。また、おそらくこれからもない、と思います。

本当にありがとう。

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2011年の最後に、カラヤンのベートーヴェンを聴きながら

ベートーヴェン 交響曲全集・序曲集
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリンフィルハーモニー管弦楽団
録音 1975−1977

大植さんの演奏を聴くと、それこそもう一度その体験を反芻したい衝動にそのあと数日さいなまれることになる。それがかなわないから、他の演奏をとっかえひっかえ聴くことになるのだけれど。

うちにある第9といえば、ラトル・ウィーンフィル、バレンボイム・ベルリンシュターツカペレ、ジンマン・チューリヒトーンハレ、ノリントン・ロンドンクラシカルプレイヤーズ、チェリビダッケ・ミュンヘンフィル、コンヴィチニー・ゲヴァントハウス、イッセルシュテット・ウィーンフィル、そしてカラヤン・ベルリンフィルの1962年録音のレコード。

レコードは簡単には聴けないものだから、iTuneにとりこんであったカラヤン以外の演奏をそれこそ片っ端から聴いて行きました。聴くだに、昨日の演奏を反芻し、そしてその違いからそれぞれの演奏の美点を味わい・・・そんな一日。

で、そんなこんなしているうち、ついついiTuneを検索。そしたら、どうしてもカラヤンの1977年の録音が聴きたくなってしまい・・・ついつい、全集もろともダウンロード。あああああ、4500円が一瞬でぱああああっと・・・いつもながらの、極道ぐすたふくんの後先考えない衝動買い、でありますな。

いやでも、この演奏の何というゴージャスなことだろう。1970年代のクラシックのメインストリーム、それはこういう匂いと触感だったんだ。

1977年って言えば、僕は丁度14歳。ああ、偶然にも中学三年生の時!!でも、この新録音は高くて買えなかったんだろうなあ。1962年盤を買ったところだった、っていうのもあっただろうし。

この全集のことは、学校の図書館の雑誌棚にあったレコード芸術の特集記事で読んだのを憶えている。記者が、録音場所のフィルハーモニーホールに行ったら、ベースが8本も居たが、欠席した人間のことをマネージャーが尋ねていた、と言うくだりを妙な鮮明さで記憶している。なんで、こんなこと憶えてるんだろう?

その記事を読んでいたのは、学校の雑誌閲覧室。この記憶の僕の視界には、曇った空が広がっている。図書館の高い天井と、本の匂いと、そしてストーブの石油の匂いと。

カラヤンは、やっぱりその頃の僕にとってはスーパーヒーローだった。新譜が出れば、記事には必ず目を通していたけど、お金のない中学生にとっては、新譜は高根の花だったからね。

今の僕が、そんな中学生の僕が渇望していた演奏を、ひょいっとダウンロードして聴いてるんだなあ。

今、ヘッドホンからは、カラヤン美学炸裂の豪華絢爛たる演奏の奔流。これはこれで、何と魅力的なことだろうか。そんな演奏を、聴きたいと思ったら、自宅にいままにしてすぐに聴くことができる、そんな時代になるだなんてそのころの僕には想像もつかなかっただろう。

でも、今この演奏を今の僕が聴いたって、そこには、あの時にあの時の僕が聴くことができた場合の、その何分の1の価値しかそこには無いような気がする。

聴いているだろうか、中学生の僕。時間もなく、お金もないけれど、想いばかりは大きく、それを必死で追いかけるだけで幸せだった君に、今の僕からささやかなプレゼントができたなら、うれしい。

もうすぐ年が変わる。不惑40代、最後の年が始まる。

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大植・大フィルの第9〜まるで第9の別バージョン〜

いやまあ、何と申しましょうか・・・・大植英次、炸裂、と言ってよろしいのでは。

大阪 ザ・シンフォニーホール
大フィル第9シンフォニーの夕べ
大植英次指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団
ソプラノ スザンネ・ベルンハート
アルト カロリン・マズア
テノール トーマス・クーリー
バリトン アンドレアス・バウアー
合唱 大阪フィルハーモニー合唱団・大阪音楽大学合唱団

正直言って、27日に広上・京響で聴いたばかりの同じ曲とは思えないですね。まるで、ブルックナーのある交響曲のノヴァーク版第3稿と第1稿を聴いたみたい、といっても言い過ぎではないような気すらしてます。

正直、この曲、こんな曲だったけ?こんな音が鳴ってたっけ?、の連続。第9なんて、これまで耳にタコができるくらい聴いてきた曲。ここでこんな音が鳴って、ああなってこうなって、って身に沁みついてると言ってもいいくらい。それこそ頭の中で鳴らそうと思えば、いつでも鳴らせますよね。ところが、ところが・・・・スコアを、今日の演奏をもう一度聴きながら、詳細にチェックし直したいくらいなのだが、残念ながらそれは不可能ですよねえ。

なんでぐすたふくんに今日の演奏がそう思わせたか。それは、ひとえに特異なオケの配置によるところ大。大フィルのブログにも書いてあったが、実際に目に、耳にしてみると、まあ想像以上のもの。

まずストリングセクションからして、なんやこれ!こんな配置見たことないで!!・・・でんと指揮者の正面にチェロ、その後ろに横一列にベース。そしてそのチェロを挟んで二群のヴィオラ(というより、ヴィオラがチェロで分断されてるといった方がいいかしら?)。その二群のヴィオラをチェロと挟むようにして、ファーストヴァイオリンとセカンドヴァイオリンが対向配置でにらみ合うという格好。

そして、管セクションも二群に分かれて、左右のヴィオラの後ろに座すような配置。左群は、ホルン4本が最も右に位置し、その音をもろにかぶるようなところに木管群。その後ろに打楽器群(4楽章用の)。右群は、ペット二本とその後ろにボーン3本、その左にティンパニ。

そんなもんだから、二群の管楽器群が、舞台の端と端に遠おおおおく離れてしまってるわけですよ。そら、違う音がしますわねえ。

しかし、この編成が生むアンサンブルの取りにくさといったら、半端じゃないです。そんなもんで、今日は最初から最後まで、コンマスの長原君、獅子奮迅の大活躍(何回椅子から腰を浮かせただろう?)。それのみならず、オケ全体が異様な緊張感に包まれているのがこちらにもひしひしと伝わってくる。オケ全員、まるで初めての曲をやってるようなもんやったんでしょうねえ。なじみの曲、というようなルーティーン感は微塵もなく、それこそ下手したら崩壊するで、というような危機感すら漂ってます。実際、4楽章の弦楽器の二重フーガになる直前のところなど、ああああ止まる止まる!とかなり危なかったですもん。まあ、大植さんもオケも必死になんとか持ち直しましたが。

その緊張感が、まるで大学オケの入魂の定期演奏会のような熱演を生むのだから、音楽ってのはホントに分からないもんです。

合唱は、感心するほど秀逸。京響市民合唱団には申し訳ないが、一枚も二枚も上手です。しかし、この合唱の配置も独特で、後列2列に男声がテナー・バスと一直線に横に並び、その前に女声がソプラノ・アルトが並ぶという配置。そして、その合唱を背中に、ソロ4声がオケを見降ろすように屹立する。

この配置が最も効果的だったのは、4楽章で声楽がはいってくる、あのバリトンのレチタティーボから、その呼びかけに応えて男声が「Freude!!」とやるところ。それこそまるで、労働運動・共産主義のシュプレヒコールを見てるみたいな演劇的効果、大でしたね。

ソロ4声が合唱を直接背中に背負ってオケを見降ろすというのも、まるで天使が民衆を引き連れて進軍してくるかのような印象を与える。こういう演劇的効果、これもまた、この曲が歴史的背景から本来有していたものだったよね、と思う時、通常これまでの日本での第9の公演では得られなかったようなものが、今日ここに再現されていることに気付く。いやあちょっとしたことでもここまで印象が変わるもんなんやなあ。

ソロ4声も、それぞれが声を張り上げて主張しあうというものではなく、それこそ一つのユニットとして機能するようなアンサンブルと響き。そして、全員がドイツ人であることに気が付くと、来年が日独150周年であることと明瞭に関連していることに思いが至る。

第9の前には、ドイツ音楽の権化と言うべきバッハをバックに葦笛が和そのものの音を飛翔させつつ、アリアの鎮魂の響きで震災の記憶を呼び戻す。そして、大植さんの目の前に置かれた小さな台の上にある写真は、予想どうり御大のもの。それを掲げて、口づけさえして見せる二代目監督にとって、これが最後の第9。

ああ、大植英次、あなたは今回の公演のために、それこそ山のようにいろんなことを考えて、山のように準備をして臨んだんですね。何という人なんだろう、あなたという人は。

コーダの怒涛のプレスト。四方八方からのブラボーの嵐・・・そして、合唱団が退場するその時に再び現れた大植さんに、帰りかけていた聴衆は足を止めて舞台に向き直り、久しぶりの一般参賀。温かい拍手と、そして笑顔と。

大植英次、僕はこの9年間、あなたと大阪で、大阪の聴衆と一緒に、ここに居させてもらって、音楽を分かち合うことができて、本当に良かった。最高の時間だったと思います。

こころから、有難う、と言わせてください。

追記:
実は僕の席は今回、1階のど真ん中。僕の左には、朝比奈千足氏の御大そっくりのお顔。そして、右にはおそらくはドイツ大使館の方々。後ろには、小野寺前事務長・・・・その一角では、みな互いに挨拶をかわしていたから、そういう場所だったんでしょうねえ。そんなとこに今日座らせてもらって、なかなか感慨深いものがありました。

今日は、ファイナルコンサートの曲目のアンケート用紙が配られていたけど、演奏を聴いた後では、「復活」と書くのが躊躇されてしまいました。そんな安易なもんじゃないんじゃないかなあ、と思われて。

むしろ、もっと思い出としてふさわしい曲があるんじゃないかな、と。定期で一番感動した曲、定期で一番大植さんに相応しいと思った曲。おおさかクラシックで、泣いて笑った曲・・・・大曲1曲で終わってしまう、そんなコンサートより、あの曲・この曲、というプログラミングができる曲達の方がいいんじゃないかしら?

今は、そんな気がしています。

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広上・京響の第9

いい演奏会でした。

京都 京都コンサートホール
京響特別演奏会「第九コンサート」
広上淳一指揮 京都市交響楽団
京響市民合唱団、京都市立芸術大学音楽学部合唱団
フルート独奏 清水信貴
ハープ独奏 松村衣里
ダマーズ:フルート、ハープ、弦楽のためのデュオ・コンチェルタント
ベートーヴェン:交響曲第9番二短調「合唱付き」作品125

この間の日記にも書いたけれど、33年ぶりの京都での第9、当然、広上さんの第9を聴くのも初めて。

まず、ダマーズが秀逸。フルートとハープがソロをとるフランスものなんて、まあ、京響のためにあるような作品。真冬だというのに、まるで春の温かな風がふううううっと舞台から吹いてくるような、華やかな色彩に満ちたその響きは、陶然とする瞬間に事欠かない。清水さんのフルートと松村さんのハープ、このペアが京響の中にある、ということの幸せを再認識させてもらいました。

第9については、一言、「広上・京響の第9って、こんな音がするんや」・・・なにをいっとるんやと思われましょうが、これが正直な感想。

それは、まず、最初の空虚五度から昂揚して最初のフォルテに至った時の響きで思い知らされる。これを、言葉で表現するのは至難の業。ただ、明らかに、僕がこれまで聴いてきたどの第9の音とも違う、と思う。大フィルの腹に堪えるようなサウンドでもなく、いわんや昔の京響の第9の音でもない。

終演後、京都百科さんとスコッチを片手に話しあった時に、互いに意見が一致したのは、おそらくは、この音が、広上さんがこれまで4年にわたって京響と創り上げてきた「京響のベートーヴェンの音」なんだろう、と。

これまで、僕がこのブログで繰り返し書いてきたが、広上さんが来るまでの京響のベートーヴェンなんて、一人ひとりの奏者が頑張っているのはわかるけれど、それが決して良い結果につながっていない、というサウンド。硬く硬くなるばかりで、鳴らない、開いて行かない。うちの母親も、いわんやこすもすまでもが「京響、ベートーヴェンなんてやめたらいいのに」とまで言い切った音。

それが、ここまでになったんだ。

広上さんは、1楽章の複付点を、2楽章の付点八分を明瞭に振り込む。そのことで、音の輪郭が立っていく。そのくっきりしたフィギュアのなかに、整理された立体的な響きが立ちあがって行く・・・・こう表現するのが、僕としてはやっとだけれど、ああ確かにこれこそが、今の「広上・京響」の音なんだな・・・そうぐすたふくんは何度うなずき、何度その響きを聴ける幸せというものを想っただろう。

今日は、このことだけでも十分すぎる演奏会だなあ、そんな風に思いました。

総勢200人になんなんとする巨大な合唱団は、圧倒的な音圧。ただ、ソプラノがいまひとつ濁っていたのが残念かなあ。ただ、男声は60人余りの劣勢ながらなかなかに立派な歌唱を響かせていて、敢闘賞もの。拍手をおくるにやぶさかではありませぬ。

全席完売、満員御礼の会場は、第9に相応しい祝祭感を湛えたもの。でも、もうちょっと温かい拍手を盛大に送ってあげてもいいのになあ、と思ったのはぐすたふくんだけかしら。

今日の京都の第9を心にしまって、さあ、30日の大阪に向かいましょう。

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中学3年生の時の第9

僕の人生で最も幸せな時間があったとするなら、それは中学3年生の時だったんじゃないかと思う。

あの時のクリスマス、前の日記にも書いたけれど、24日のイブの18時からタブローがあって、中学生はその前にクラスで集まって、クラス会をするっていうのが習わし。どういうわけか、これは中学だけで、高校になったらなくなってしまったんだけれど。多分、中学一年生が全員参加でその日に出席することになるから、出席日数を合わせるために、中2と中3はキャストで出演する以外の人間については、クリスマス会で出席扱いにしてたんだろうな。これは想像だけれど。

クラス代表が、近くのマクドナルド(まだできたばかりで珍しかった)で、フィレオフィッシュとチーズバーガーを買ってきて、みんなで食べて解散。なんか、他にないんやろか、って感じだけど、それが70年代後半、だったんですよね。

それで、そのクラス会の前に講堂でちょっとした演奏会なんかのイベントがあって、即席のバンドを組んで演奏なんかをしてたんですよ。その年、僕はオケの同級生に誘ってもらって、カルテットのセカンドを弾かせてもらったんですよね。

アイネ・クライネを全曲やって、そしてチャイコフスキーのアンダンテカンタービレをやって、クリスマスキャロルを数曲やって・・・・中2から始めた僕を他の3人(彼らは中1から始めてたんだけど)はホントに大事にしてくれて、僕が劣等感を持たないよう、どれだけ心配りをしてくれたかわからない。有難かったなあ。これが、僕の弦楽四重奏曲の初体験だったです。

オケを初めて2年目、聴くもの弾くもの初めての曲ばかり。でも、せっかくオケに出会ったからには、是非とも第9を実演で聴いてみたい。そう言ったら、その時、チェロをやってた友人が、教えてくれたんですよね。京響が何回か第9をやるけれど、その中で一番の聴きものは、市立芸大が合唱を受け持つ時だって。合唱が一番それがいいからって。

そう教えてもらった僕は、三条の十字屋に言って、生まれて初めてチケットを自分のお小遣いで買ったんです。でも、その時思ったのは、席ってこれだけしかないのかって。ホントに一列の一部しか十字屋には置いてなくって、ええええって思ったのを憶えてます。今から思えば、市立芸大がほとんどのチケットを抑えていた公演だったんでしょうけどね。

そして、予習に選んだレコードはグラモフォンのカラヤン・ベルリンフィル。これも高かった。何回、お昼を抜いて、弁当代をためたことだろう。買って帰ってからは、毎日このレコードを聴く日々。それこそ一日が、帰ってこのレコードを聴くためにあるかのよう。

クリスマスのコンサートも、そしてクラス会も終わって、その次の日だったんじゃないかな。学校は休みになってたけど、タブローの後片付けにつきあって、制服のままで学校から直接、京都会館に向かったんじゃないかと思います。

その日は、丁度今年みたいにこの時期にしては寒い日が続いていたときで、天気もあまりよくなかったと思う。雪でもちらつきそうな曇り空、三条京阪から歩いて京都会館に一人で(!)向かう僕は、生まれて初めて一人で疏水横の喫茶店に入って(よくまあ、制服で入ったもんだ)メニュー見てその高さに仰天しつつ、カレーだかサンドイッチだか食べたような記憶がある。自分で買ったチケットで行く初めてのコンサート、っていう高揚感が僕をそうさせていたんじゃないかしら。

指揮者は、小泉和裕(!!)。生まれて初めて実演で聴く、1楽章冒頭の空虚5度。制服姿で一人で京都会館の1階席、真ん中から少し右側によったところにちょこんと座っていた僕を、周りの人はどう見ていたのかしら。

生まれて初めて聴く、4楽章の合唱。vor Gott!!の昂揚・・・・中学3年の僕は、その時ずっとこの音楽の中に包まれていたい、と本当に心の底から思っていた。出会いの奇跡、心の震えと、少年からの青年への変容と。

今年は33年ぶりに、京都で第9を聴くことができそうです。

京都の冷気は、あの時と今も変わらない。一方で、京響は変わったし、指揮者も変わった・・・でも・・・僕の心があのころと変わらず、この曲に震えることができますように。



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クリスマス・タブロー

今年は、30年ぶりに母校のこの行事に行きたかったんです。でも、調べてみると、僕が在校していた時とちがって、今は16時から開始で18時に終わるとのこと。しかも、クリスマスイブではなく、23日。この時間、りんりんのピアノの発表会とばっちりかちあってて、残念ながら行けないです(涙)。なんでこんな時間なんだ。

時間が経ったんですね。僕が在校していた時、タブローはクリスマスイブの18時から。ほとんど21時近くまでかかる長丁場。そして、そのあと、修道会のクリスマスミサに途切れることなく続く一連の行事だったんですけどね。

でも、このキリストの生誕を無言劇で再現するというイベント、昔も今も画期的なのは、「学校行事」じゃないってことなんですよね。ミッションスクール独特の行事なんだけれど、絶対参加なのは中学一年生だけ。後のキャストもスタッフも、みんな「自主参加」。先生が、「お前やれ」と決めるんじゃない。それにもかかわらず、毎年毎年、百数十人の中学生・高校生が、自分から参加するんですよ。

僕は、この行事に高校1年生と2年生の時、照明のスタッフとして参加しました。同じ学年の友人3人と、わいのわいの言いながら。高校一年生の時は、当然2年生の人がいて、色々と教わって。そして高2の時は高1の後輩ができて、いろいろと話し合いながら。同級生の一人が演劇部の部長で、でも演劇部の他の人間は参加しなくって・・・・別に僕は彼を助けようと思ったわけじゃない(彼は、口には出さなかったけれど、すごく感謝してくれていたらしい)。ただ、参加したいな、なにか裏方で手伝いたいなって思ってたら、たまたま彼がそこに居たから。僕の親友と二人、いつの間に彼の横で、舞台を照らすスポットライトのスイッチを握り、そして舞台照明の電源コードを引きずりまわしていたんですよね。

誰かが何を言うわけでもない。それでも、何かこの行事に関わりたいなっていう生徒が、自然発生的に集まってきて、そして祈りの輪ができ上って行く。その経験が、学年から学年へと引き継がれていく。生徒から、生徒へと。バトンを渡すように。

クラブでもない、クラスでもない、この行事でしか知りあうことが無かっただろう先輩が居て、そして後輩が居る。そして、24日が終わると、みんなそれぞれの日常に戻って行く。何も言わずに。ただ、じゃあ、と挨拶をかわしただけで。

・・・神の御子は今宵しも
ベツレヘムに生まれたもう
いざや、友よ、諸共に
急ぎ行きて おがまずや
急ぎ行きて おがまずや

最後の客席も含めた全員の合唱、これが終わって舞台に幕が下りると、照明が全部落ちる。僕は、息を潜める。キャンドルサービスの中学一年生だけが浮かび上がり、O Holly nightを口ずさみながら退場してく音を遠くに聴きながら、ふとそのわずかな明りに浮かび上がる舞台の上をみやると、そこには中学1年生から高校2年生まで、あるものは衣装に身を包み、あるものはジャージ姿で、同じように粋を潜めて座っている。

誰にやれと言われたわけでもない、ただそこに居たいから。その輪の中に居たいから、僕たちはそこに居たんだ。

今年もまた、彼らのそんなささやかな思いが、そこに集う人々の祈りを神のもとに運んで行くのだろう。

頑張れ、みんな。



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アルヴァマー序曲

明日の大フィルの演奏会にはぐすたふくん、行かないんですけれど、大フィルのブログを見ていると、アルヴァマー序曲に関する熱い文章が載っていました。

ブログを検索しても、なかなかみなさん熱い!!

「そのバーンズ様の世界的代表作にして、青春時代を吹奏楽に捧げた人なら恐らく誰もが一度は演奏した(もしくは憧れた)であろう、この『アルヴァマー序曲』は、「聞くよりも、自ら奏でて初めて輝く曲」であり、どんな部員をも熱くさせる不思議な魔力を持っている。

「吹奏楽コンサートなんかでたまたま聞いた人の耳には、「ああ、カッコいい曲だな」ぐらいにしか思わないかもしれないが、実際に演奏した者には――とりわけ、吹奏楽コンクールの自由曲として日夜練習に取り組んだ者には、不滅の輝きをもって心に刻みこまれる、まさに「永遠の青春賛歌」なのである」

You tubeにも一杯アップされていて、良い曲ですねえ。初めて聴きました。熱くなるのもわかります。青春の熱さと、切なさを併せ持った、胸に甘酸っぱいものが去来する曲。

ぐすたふくん、ブラバン経験者じゃないので、こういう曲全然知らないんですよ。そう言えば、大学のオケの時には、ブラバン経験者との間でどうにもこうにも違和感がありましたねえ。リードもバーンズも、ぜんぜん知らない作曲家ですもん。(でも、ブラバン経験者のこすもすも知らないのはどういうわけかしら?)

でもね、中学・高校とオケだったぐすたふくんにも、「永遠の青春賛歌」とも言えるものはあります。ただ、これが全国のどんな中高オケ部員をも熱くさせる、不滅の輝きをもつ曲かどうかは、わかりませぬが。

それは、エルガーの「威風堂々」第1番!!さあ、どうでしょうか?みなさん、賛成していただけますでしょうか?あとは、アルルの女組曲、特に終曲の「ファランドール」!!これなんかも、みんなと共通の思いがあるんじゃないかしら。

シンフォニーでは、前にも書いたけれど、チャイコの5番だけれど、これは普通中高オケでは手を出さない(このごろは違うのかなあ)から、ちょっと、かしら。

どっちかというと、ドヴォ8番なんかが、経験した人が多くて、思いを共有するのにぴったりかもしれないなあ、と思ったりしますが、その辺、みなさんいかがですか?

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大阪に今おこっていることは、日本の未来である

センチュリーに引き続き、公的助成の削減で大フィルも経営危機になることがおそらくは確実でしょう。

この経過を見る時、ソ連崩壊後のロシアのオーケストラの混迷をまざまざと思い出させられます。その時、ロシアのオケも次々に潰れ、新しいオケができ、少しでも金を稼ごうとして日本に出稼ぎに来、スポンサーを目当てに日本の指揮者を迎え・・・・

でも、こうしたことは、遠からず我々自らの身に降りかかることではないでしょうか。公費助成が減り、医療サービスが低下し、生活保障が切り詰められ、税金はあがるでしょう。一人ひとりが「経営危機」になる。

その状況でも、私たちは「この街のオケ」を支えていける気概を持ち続けられるか?

ロシアでは、レニングラード・フィルもモスクワ放送交響楽団も名前は変わったが生き残りました。大フィルも生き残ってください。

これからの危機の時代、私たちも生き残らなければならない。「津波てんでんこ」、一人ひとりができることを必死にやるだけです。

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